生の拡充
大杉栄

「征服の事実」の中に、僕は「過去と現在とおよび近き将来との数万あるいは数千年間の人類社会の根本事実」たる征服のことを説いて、これが「明瞭に意識されない間は社会の出来事の何ものも正当に理解するを許されない」と断じた。
 そしてさらにこの論を芸術界に及ぼして、「この征服の事実とおよびそれに対する反抗とに触れざる限り、諸君の作物は遊びである、戯れである。われわれの日常生活にまで圧迫して来る、この事実の重さを忘れしめんとする、あきらめである。組織的瞞着の有力なる一分子である」となし、最後に次のごとき結論を下した。
「われわれをしていたずらに恍惚たらしめる静的美は、もはやわれわれとは没交渉である。われわれはエクスタシイと同時にアンツウジアスムを生ぜしめる動的美に憧れたい。われわれの要求する文芸は、かの事実に対する憎悪美と叛逆美との創造的文芸である。」
 今僕は再びこの問題にはいって、この三項の連絡をもう少し緊密にし、したがって僕のこの主張にさらに多少の内容的明白を加えたいと思う。

 生ということ、生の拡充ということは、言うまでもなく近代思想の基調である。近代思想のアルファでありオメガである。しからば生とは何か、生の拡充とは何か、僕はまずここから出立しなければならぬ。
 生には広義と狭義とがある。僕は今そのもっとも狭い個人の生の義をとる。この生の神髄はすなわち自我である。そして自我とは要するに一種の力である。力学上の力の法則に従う一種の力である。
 力はただちに動作となって現れねばならぬ。何となれば力の存在と動作とは同意義のものである。したがって力の活動は避け得られるものではない。活動そのものが力の全部なのである。活動は力の唯一のアスペクトである。
 さればわれわれの生の必然の論理は、われわれに活動を命ずる。また拡張を命ずる。何となれば活動とはある存在物を空間に展開せしめんとするの謂に外ならぬ。
 けれども生の拡張には、また生の充実を伴わねばならぬ。むしろその充実が拡張を余儀なくせしめるのである。したがって充実と拡張とは同一物であらねばならぬ。
 かくして生の拡充はわれわれの唯一の生の義務となる。われわれの生の執念深い要請を満足させるものは、ただもっとも有効なる活動のみとなる。また生の必然の論理は、生の拡充を障礙せんとするいっさいの事物を除去し破壊すべく、
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