弾正の国家主義には気がついたのかつかなかったのか、それともまだ僕の心の中にたぶん残っていたいわゆる軍人精神とそれとが合ったのか、それは分らない。とにかく僕は先生の雄弁にすっかり魅せられてしまった。まだ半白だった髪の毛を後ろへかきあげて、長い髯をしごいては、その手を高くさしあげて「神は……」と一段声をはりあげるそのいい声に魅せられてしまった。僕は他の信者等と一緒に、先生が声をしぼって泣くと、やはり一緒になって泣いた。
 先生はよく「洗礼を受けろ」と勧めた。「いや、まだキリスト教のことがよく分らんでもいい。洗礼を受けさえすれば、ただちに分るようになる」と勧めた。僕はかなり長い間それを躊躇していたが、ついに洗礼を受けた。その注がれる水のよく浸みこむようにと思って、わざわざ頭を一厘がりにして行って、コップの水を受けた。
 このキリスト教は、僕を「謹厳着実」な一面に進めるのに、大ぶ力があったようだ。しかしそれも長くは続かなかった。

   五

 僕は外国語学校の入学試験に及第するとすぐ、父のいた福島へ行った。父はその少し前に、部下の副官の何かの不しだらの責を負って、旅団副官から福島連隊区の副官に左遷されたのだった。
 その後父の兄から聞いた話ではあるが、その頃父は師団長と喧嘩していたのだそうだ。旅団長の比志島義輝が師団長の誰とかと仲が悪くて、というよりもむしろその師団長に憎まれていて、副官たる父はいつも旅団長を擁護する地位に立たなければならなかった。比志島は以前にも借金のために休職になったのだが、日清戦争で復活して、また以前のように盛んに借金していた。そして父は、表向きの副官であるよりも、より以上に比志島家の財産整理のために忙がしかった。旅団長はまた幾度も休職になりかかった。父はそのたびに仙台へ行って、旅団長のために弁解して、師団長と激論した。そんなことから、旅団長の出す進級名簿の中からは、いつも師団長の手で父の名が削られた。そしてついに比志島は休職となって、そのあとへ師団長のそばにいた何とかいう参謀長がやって来た。その結果が父の左遷となったのだそうだ。
 さらにその後、これは父が誰かに話しているのを聞いたのだが、比志島は日露戦争でまた復活して、戦地から一万円二万円というような金を幾度もその債権者のもとに送って、帰る頃には借金を全部済ました上にかなりの財産までもつくっていたそうだ。

 父は連隊区司令部のすぐそばの、僕等がまだ住んだこともないほどの、小さな汚ない家にいた。そして女中も置かずに、僕のすぐ妹に学校をよさして、大勢の弟妹等の世話やその他のいっさいをやらしていた。
 が、僕の驚いたのは、それよりも父のはなはだしい変り方であった。年はまだ四十三、四だったのだろうが、急にふけて、もうたしかに五十を幾つもこえた老人のようになっていた。そして以前には、うちのことはいっさいを母に任して金のことなぞはつい一ことも言ったのを聞いたことがなかったのに、妙にけちんぼな拝金宗になっていた。
 もっとも、以前からごく質素で、自分で自分の小使銭を持っていたこともなく、また恐らく金の使い道も知らなかったほどなので、その本来のけちんぼうが少しもそとに現れなかったのかも知れない。が、母が死んで、自分でうちの細かい会計までやって見るとなると、これが急に目立って来たのかも知れない。
 とにかく父は、月給や、勲章の年金だけではとてもやって行けない、と言っていた。そして、どうして母が今よりもずっとはでな生活をしていて、それで毎月幾らかずつ残して行ったのかと不思議がっていた。父はそんな心配や、母のない大勢の子供等のための心配なぞで、急に年がふけたのだ。急に金のありがた味を感じだしたのだ。
 それに、父の兄の話を本当だとすると、父はもう軍人生活に見切りをつけて、実業界へでも鞍がえするつもりでいるらしかった。毎朝新聞を見るのにでも、きっと相場欄に目を通していた。そして僕にもそれを読むように勧めて、その読みかたなどをいろいろと講釈までしてくれた。僕はいつの間に父がそんなことを知ったのだろうと怪しんだ。が、この実業熱も新聞の相場欄に対する熱心も、実はその先生があったのだった。ある日連隊区司令官の何とかいう中佐か大佐のうちへ遊びに行ったが、僕はその司令官から父の講釈そのままの講釈をまた聞かされた。
 僕は父が急にふけて見すぼらしくなったのは傷ましかったが、しかしその心の変化には少しも同情ができなかった。むしろ父を賤しみさえした。そして父の先生がその司令官であったのを見て、軍人がみなそんなさもしい心になったのじゃないかと憤慨しかつさげすんだ。
 したがって、しばらく目の僕の帰省も大して愉快ではなかった。そして一カ月ばかりしてまた東京に帰った。

 外国語学校にはいって見てすぐがっかりした。幼年学校で二年半やって、さらにその後もつい数カ月前までフランス語学校の夜学で勉強しつづけて、もう自分で分らんなりにも何かの本を読んでいたフランス語も、またアベセの最初から始めるのだ。
 もっとも一カ月ばかりしてから、仏人教師のジャクレエの心配で、卒業の時には本科卒業として出すという約束で全科目選集の選科生として、二年へ進級したが、その二年ももとより大したことではなかった。そしてこの二年へ行って気がついたのだが、先生のまるきり無茶なのに驚かされた。フランスに十年とか十五年とかいたという先生が、二年生のできのいいものよりももっとできないんだ。そして本いっぱいに鉛筆で何か書きつけて来て、それを拾いよみしながら講義して、それ以外のことにはほとんど何一つ生徒の質問に答えることができないんだ。そしてできる二人ばかりの先生は、怠けものでずいぶんよく休みもし、また出て来てもほんのお義理にいい加減に教えていた。そしてその大勢の先生の教えるものの間に、ほとんど何の連絡もないんだ。
 ただ一人、ジャクレエ先生だけが、実に熱心に、一人で何もかも毎日二時間ずつ教えた。僕はこの先生の時間だけ出ればそれで十分であった。そしてそれ以外の先生の時間はできるだけ休むことにきめた。

 ちょうどその頃だ。日露の間の戦雲がだんだんに急を告げて来た。愛国の狂熱が全国に漲った。そしてただ一人冷静な非戦的態度をとっていた万朝報までが急にその態度を変え出した。幸徳と堺と内村鑑三との三人が、悲痛な「退社の辞」をかかげて万朝報を去った。
 そして幸徳と堺とは別に週刊『平民新聞』を創刊して、社会主義と非戦論とを標榜して起った。
 これまで僕は、それらの人とは、ただ新聞上の議論と、時に本郷の中央会堂で開かれた演説会での雄弁とに接しただけで、直接にはまだ会ったことがなかった。しかしこの旗上げには、どうしても一兵卒として参加したいと思った。幸徳の『社会主義神髄』はもう十分に僕の頭を熱しさせていたのだ。
 雪のふるある寒い晩、僕は初めて数寄屋橋の平民社を訪れた。毎週社で開かれていた社会主義研究会の例会日だった。
 玄関をはいったすぐ左の六畳か八畳の室には、まだ三、四人の、しかも内輪の人らしい人しかいなかった。そしてその中の年とった一人と若い一人とがしきりに何か議論していた。僕は黙って、そこから少し離れて、壁を背にして坐った。議論は宗教問題らしかった。年とった方はあぐらをかいて、片肱を膝に立てて顎をなでながら、しきりに相手の青年をひやかしながら無神論らしい口吻をもらしていた。青年の方はきちんと坐って、両手を膝に置いて肩を怒らしながら、真赤になって途方もないようなオーソドクスの議論に、文字通りに泡を飛ばしていた。そしてその間に、ちょいちょいと、もう一人の年とったのが、それが堺であることは初めから知っていた、先きの男ほど突っこんでではないがやはりその青年を相手に口を入れていた。
 僕はその青年の口をついて出る雄弁には驚いたが、しかしまたその議論のあまりなオーソドクスさにも驚いた。僕も彼とは同じクリスチャンだった。が、僕は全然奇蹟を信じないのに反して、彼はほとんどそれをバイブルの文句通りに信じていた。僕は自分の中にあるものと信じていたのに反して、彼は万物の上にあってそれを支配するものと信じていた。僕はこんな男がどうして社会主義に来たんだろうとさえ思った。そして無神論者らしい年とった男の冷笑の方にむしろ同感した。
 この年とった男というのは久津見蕨村で、青年というのは山口孤剣だった。
 やがて二十名ばかりの人が集まった。そしてたぶん堺だったろうと思うが、「きょうは雪も降るし、大ぶ新顔が多いようだから、講演はよして、一つしんみりとみんなの身上話やどうして社会主義にはいったかというようなことをお互いに話ししよう」と言い出した。みんなが順々に立って何か話した。ある男は、「私は資本家の子で、日清戦争の時大倉が罐詰の中へ石を入れたということが評判になっているがあれは実は私のところの罐詰なんです、もっともそれは私のところでやったんではなくて、大倉の方である策略からやったらしいんではあるが」と言った。
「それじゃ、やはり大倉の罐詰じゃないか。どうもそれや、君のところでやったというよりは大倉がやったという方が面白いから、やはり大倉の方にして置こうじゃないか。」
 こう言ったのもやはり堺だったろうと思うが、みんなも「そうだ、そうだ大倉の方がいい」と賛成して大笑いになった。その資本家の子というのは、今の金鵄ミルクの主人辺見なんとかいうのだった。
 もうほとんど最後近い頃に僕の番が来て、僕も、「軍人の家に生れ、軍人の間に育ち、軍人の学校に教えられて、軍人生活の虚偽と愚劣とをもっとも深く感じているところから、この社会主義のために一生を捧げたい」というようなことを言った。
 そして最後に堺が立って、「ここには資本家の子があり、軍人の子があり、何とかがあり、何とかがあり、実にわれわれの思想は今や天下のあらゆる方面にまで拡がっている。われわれの運動は天下の大運動になろうとしている。われわれの理想する社会の来るのも決して遠いことではない」という激励の演説があった。
 僕はそう言われて見ると、本当にそんなような気がして、非常にいい気持になって下宿へ帰った。その日幸徳がそこにいたかどうかはよく覚えていない。
 それ以来僕は毎週の研究会には必ず欠かさずに出た。そしてそれ以外の日にもよく遊びに行ったが、ことに下宿を登坂や田中のいた月島に移してからは、ほとんど毎日学校の往復に寄って、雑誌の帯封を書く手伝いなどして一日遊んでいた。

   六

 平民社は幸徳と堺と西川光二郎と石川三四郎との四人で、石川を除く外はみな大の宗教嫌いだった。でもそとから社を後援していた安部磯雄や木下尚江は石川とともに熱心なクリスチャンだった。そしてそこに集まって来た青年の大半がやはりクリスチャンだった。当時の思想界では、キリスト教が一番進歩思想だったのだ。少なくとも忠君愛国の支配的思想に背くもっとも多くの分子を含んでいたのだ。
 幸徳や堺等はかなり辛辣に宗教家を攻撃もしまた冷笑もした。そして研究会ではよく宗教の問題が持ちあがった。しかし幸徳や堺等は、宗教は個人の私事だというドイツ社会民主党の何かの決議を守って、同志の宗教にはあえて干渉しなかった。
 石川は本郷会堂での僕の先輩だった。が、その頃にはもう教会というものにあいそをつかして、ほとんど教会に行くこともなかったらしい。
 僕も平民社へ出入りするようになってからは、みんなの感化で、まず宗教家というものに、次には宗教そのものに、だんだん疑いを付け始めた。そして日露の開戦が僕と宗教とを綺麗に縁を切ってくれた。
 僕は、海老名弾正が僕等に教えたように、宗教が国境を超越するコスモポリタニズムであり、地上のいっさいの権威を無視するリベルタリアニズムだと信じていた。そして当時思想界で流行しだしたトルストイの宗教論は、ますます僕等にこの信念を抱かせた。そしてまた僕は、海老名弾正の『基督伝』や何とかいう仏教の博士の『釈迦牟尼』の、キリスト教および仏教の起源のところを読んで、
前へ 次へ
全24ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング