いつまで辛棒できるかと思うと、自分でも恐ろしくなりますの。私今まで軍人の奥さんで、ことに日露戦争の間に、旦那が戦死してすぐ髪を切った方をたくさん知っていますわ。そしてそれが二、三年か四、五年かしてどうなったかもよく知っていますわ。そのまま立派な未亡人で通した方はまるでないんですもの。そして本当の尼さんのような生活にはいった人ほど、それがひどいんですもの。」
僕はただの平凡な軍人の細君と思っていた彼女が、これほどはっきりと、いわゆる未亡人生活を見透しているのに驚いた。
「それであなたはどうしてもその辛棒ができないというんですか。」
僕は彼女がそれについてどこまで決心しているのかを問いただそうと思った。
「いいえ、どこまでも辛棒して見るつもりです。今私は隅田の郷里に帰って、世間とのいっさいの交渉を断って、ただ一人の子供を育てあげることと、隅田の位牌を守って行くこととの、本当の尼さんのような生活をするように、毎日みなさんから責められています。しかしそれも辛棒して見るつもりです。どこまでそれで辛棒できるか知りませんが、とにかくできるだけどこまでも辛棒して行きます。」
「けれどもその辛棒ができなくなる恐れがあるんでしょう。その時にはどうするつもりなんです。」
「え、それが心配なんですの、恐ろしいんですの。けれど、やっぱり、どこまででも辛棒しますわ。」
「で、あなたの方のお父さんやお母さんはどう言っているんです。」
「私には可哀相だ可哀相だと言っていますが、やはりいったん隅田家へやった以上は、隅田家の言う通りにしなければならんと言っています。」
「あなたがそうまで決心しているんなら、それでもいいでしょう。しかし、できるだけやはり辛棒はしない方がいいです。辛棒はしても、もうとてもできないと思う以上のことは決して辛棒しちゃいけません。それが堕落の一番悪い原因なんです。」
「でも、それでも辛棒しなきゃならん時にはどうしましょう。」
「いや、辛棒しなきゃならん理窟はちっともないんです。そんな場合には、もういっさいをなげうって、飛び出すんです。すぐ東京へ逃げていらっしゃい。僕がいる以上は、どんなことがあっても、あなたを勝たして見せます。」
「ええ、ありがとうございます。私本当にあなたをたった一人の兄さんと思っていますわ。けれど私、どうしても辛棒します。どこまでも辛棒します。ただね、本当に栄さん、私あなたをたった一人の兄さんと思っていますから、どうぞそれだけ忘れないで下さいね。」
僕は彼女とほとんど手を握らんばかりにして、また近いうちに会う約束で別れた。
その翌日、隅田の葬式があったのだが、僕は着て行く着物も袴も何にもなし、また借りるところもないので、わざと遠慮して、そこから余り遠くない麻布の神近の家で一日遊んで暮した。
それから幾日目だったか、ある日、礼ちゃんが麹町の僕の下宿に訪ねて来た。
いよいよあすとかあさってとか、隅田の郷里に帰るので、牛込のある親戚へ用のあったのを幸いに、内緒で立ち寄ったとのことだった。話はやはり、いつかの彼女の家での話を、もう少し詳しくして繰返したに過ぎなかった。が、そうして彼女と話している間に、僕は幾度彼女の手を握ろうとする衝動に駆られたか知れなかった。
しかし、彼女もいつまでそうしていられる訳でもなく、また僕ももう芸術倶楽部へ行く時間が迫っていたので、下宿を出て、一緒に倶楽部のすぐ近くまで行った。そして無事に、お互いに「ご機嫌よう」と言って別れてしまった。
四
順天中学校というのは、もっともほかにもそんなのが幾つもあったのだろうが、ちょっと妙な学校だった。
僕のはいった五年は三組で二百人か二百五十人かいた。四年は二組で百五十人、三年は百人、二年一年は四、五十人というように、級がさがるに従って生徒の数が減っていた。わざわざこんな学校に一年や二年かではいるものはないんだ。そしてたいがいのはすぐと四年か五年かへはいるんだ。
僕等の組には、哲学院(東洋大学の前身)を出たものだの、早稲田を出たものだの、その他いろんな専門学校を出たものがいた。そんなのは何かの必要からただ中学校卒業の免状だけを貰いに来たのだ。また、顔を見ただけでも秀才らしいまだ年少の、あるいはぼんやりとした年かさの、独学の人もかなりいた。それからまた、僕達と同じように、どこかの学校で退学させられた不良連もずいぶんいた。そして僕と同じように、換玉ではいったのもこの不良連の中に多かった。
僕と一緒にこの順天中学校へはいった友人に登坂というのがいた。やはり僕とほとんど同時頃に、男色で、仙台の幼年学校から逐われて来たのだった。
この登坂とは、その年の一月、すなわち僕が東京へ出て来るとすぐ、市ヶ谷[#底本では「市ケ谷」]の幼年学校の面会室で出遭った。そして彼から、新発田での旧友で同時に幼年学校へはいった谷という男ともう一人とが、やはり彼と一緒に退学させられたことを知った。四人はすぐ友達になった。ほかにもまだ、やはり同時頃に同じような理由で大阪の幼年学校を退学させられた、島田というのともう一人と、どこかで落ち合って、これもすぐ友達になった。みんな、名古屋、仙台、大阪と所は違うが、同じ幼年学校の同期生だったのだ。
みんなはその名誉恢復のためというので、互いに戒めて勉強を誓った。そしてその年の九月十月にはみんなどこかの中学校の五年にはいった。
その中でも登坂と僕とは、最初に出遭った関係からか、またお互いに文学好きで露伴と紅葉との優劣を論じ合ったりしていたせいか、一番近しくなった。ことに一緒に順天中学へはいるとすぐ、本郷の壱岐坂下に一室をかりてそこに一緒に住んだ。
二人とも、学校の方もよく勉強したが、小説もずいぶんよく読んだ。坂上にちょっとした、貸本屋があった。そこから借りて来るのだが、しばらくの間にその、貸本屋の本をほとんどみな読んでしまった。
後には島田もこの下宿に仲間入りした。島田は撃剣が御自慢で、真黒な顔をして巌丈なからだの男で、いつも僕等が小説なぞを読むのを苦々しそうにしていた。そこで、登坂と僕とが一策を案じて、そのいやがるのを無理押しつけに、『不如帰』を借りて来て読ました。先生、最初の間はむずかしそうな顔をしてページをめくっていたが、だんだん眉の間の皺をのばして来た、とうとうしまいにはそのさざえ[#「さざえ」に傍点]のような握拳でほろほろと落ちる涙をぬぐいはじめた。「それ見ろ」というので、その後二人は島田の喜びそうなものを選んでは読ましていたが、島田は浪六の『五人男』がすっかりお気に召して、「俺は黒田だ、大杉貴様は倉なんとかだ」というようなことを言って一人で喜んでいた。
浪六物や弦斎物はとうの昔に卒業して、紅葉、露伴のものまでももう物足りなくなっていた僕等は、島田のそんな話には相手にならなかった。しかし僕は、その「倉なんとかだ」と言われたのが、内心はよほどの不平だった。
「なるほど、僕は倉なんとかのように、一面にはごく謹厳着実に済ましている。しかし、それだけ他のもう一面には、黒田のような豪放がひそかに燃えているんだ。貴様なんかのえせ[#「えせ」に傍点]豪放が何のあてになるもんか。」
僕は自分で自分にそう叫んで、「今に見ろ」と腹の中で一人で力んでいた。
その頃、僕よりも一期上でやはり名古屋出身の田中というのが、中央幼年学校から逐い出されて、これも僕等の下宿にころがりこんだ。その他にも、登坂の仲間の何とかいうのと、島田の仲間の何とかいうのと、これも一時僕等の下宿に来たが、この二人は僕等の「謹厳着実」な生活に堪えきれないですぐほかへ出て行ってしまった。
また、僕等よりもやはり一期上で、そして僕等よりも一年ほど前に仙台を出た箱田というのが、その年に高等学校へはいって、ちょいちょい僕等の下宿に遊びに来た。僕等よりも一期二期あとの、その後に退校させられた[#底本では「退校せられた」]二、三のものも、学校やその他のいろんなことについて、僕等のところに相談に来た。
こうして、幼年学校の落武者どもが、ほとんどみな僕等の下宿を中心として集まった。そしてその次の年には、みんな無事に中学校を終えて、僕と島田とは外国語学校に、登坂と田中とは水産講習所に、谷は商船学校に、みなかなりの好成績ではいった。
谷は今郵船の船長をしている筈だ。田中はどこかの県の技師になっていると聞いた。島田は、もう大ぶ古い頃に、どこかの田舎の連隊の将校集会所でドイツ語を教えているという話だった。登坂は一時水産で大ぶ儲けて、山陰道のどこかで土地の芸者を二人ばかりかこっていたというほどの勢いだったそうだが、十年ばかり前に失敗してアメリカへ行った。そして今でもまだ失意の境遇にいるらしい。箱田は朝鮮で検事か判事かをやっている。
僕はまた、壱岐坂上の貸本屋のほかに、神保町あたりのある貸本屋のお得意にもなっていた。そこには、小説本のほかに、いろんな種類のむずかしい本があった。僕は矢来町の下宿にいた時から引続いて、そこから哲学だの宗教だの社会問題だのの本を借りて来ては読んでいた。矢野竜溪の『新社会』は矢来町時代に、丘博士の『進化論講話』は壱岐坂時代かあるいはその少し後かに、幾度も繰返しては愛読した。
『新社会』は少し早く読みすぎたせいか、その読後の感興というほどのものは今何にも残っていない。しかし『進化論講話』は実に愉快だった。読んでいる間に、自分のせいがだんだん高くなって、四方の眼界がぐんぐん広くなって行くような気がした。今まで知らなかった世界が、一ページごとに目の前に開けて行くのだ。僕はこの愉快を一人で楽しむことはできなかった。そして友人にはみな、強いるようにして、その一読をすすめた。自然科学に対する僕の興味は、この本で初めて目覚めさせられた。そして同時にまた、すべてのものは変化するというこの進化論は、まだ僕の心の中に大きな権威として残っていたいろんな社会制度の改変を叫ぶ、社会主義の主張の中へ非常にはいりやすくさせた。
「何でも変らないものはないのだ。旧いものは倒れて新しいものが起るのだ。今威張っているものが何だ。すぐにそれは墓場の中へ葬られてしまうものじゃないか。」
しかし、僕にはまだ、何かの物足りなさがあった。母が死んだ、というようなこともほとんど忘れたようにはしていたが、次意識の中ではよほどさびしかったに違いない。また、礼ちゃんのことはやはり同じように忘れたようにはしていたが、幾年も続けて来た同性のいわゆる恋をまったく棄てた僕は、その方面でもよほどさびしかったに違いない。友人といえば、さっき言った幼年学校の落武者連だけだったが、それもただ同じ境遇から互いに励み合ったというほどのことで、本当に打解け合った親しい間柄ではなかった。
たぶんそんな餓えを充たすのだったろう。僕はよく飯倉の親戚の家へ出かけた。従兄の山田良之助(今陸軍の少将で憲兵司令官をやっている)の細君の家だ。山田は当時陸軍大学校の学生で、この飯倉の邸内の小さな家に住んでいた。僕はそれらの人のしんみ[#「しんみ」に傍点]な親しみの中にもひたりたかった。その邸のかなり贅沢な適位な生活の中にもひたりたかった。そしてまた、そこのいろんな綺麗な女の人達の笑い顔も見たかった。しかし、その人達はみな、男も女も綺麗ではあったが、その顔も心も冷たかった。ことに、僕が幼年学校を逐いだされてからは、なおさらそうのような気がした。僕よりも二つ三つ年下の何とかさんという娘なぞは、僕の幼年学校時代にはずいぶんよく一緒に遊びもしふざけもして、僕は心中ひそかに「僕が任官したら」という望みをすら持っていたんだったが、もう大ぶ娘らしくなってツンと済ましていた。
そんな寂しさがきっと主になって、そしてそのほかにもまだ、新しい進歩思想を求める要求なぞが手伝って、順天中学校を終る少し前から僕はあちこちの教会へ行き始めた。そして下宿から一番近い、またそのお説教の一番気にいった、海老名弾正の本郷会堂で踏みとどまった。
海老名
前へ
次へ
全24ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング