っかりした。幼年学校で二年半やって、さらにその後もつい数カ月前までフランス語学校の夜学で勉強しつづけて、もう自分で分らんなりにも何かの本を読んでいたフランス語も、またアベセの最初から始めるのだ。
 もっとも一カ月ばかりしてから、仏人教師のジャクレエの心配で、卒業の時には本科卒業として出すという約束で全科目選集の選科生として、二年へ進級したが、その二年ももとより大したことではなかった。そしてこの二年へ行って気がついたのだが、先生のまるきり無茶なのに驚かされた。フランスに十年とか十五年とかいたという先生が、二年生のできのいいものよりももっとできないんだ。そして本いっぱいに鉛筆で何か書きつけて来て、それを拾いよみしながら講義して、それ以外のことにはほとんど何一つ生徒の質問に答えることができないんだ。そしてできる二人ばかりの先生は、怠けものでずいぶんよく休みもし、また出て来てもほんのお義理にいい加減に教えていた。そしてその大勢の先生の教えるものの間に、ほとんど何の連絡もないんだ。
 ただ一人、ジャクレエ先生だけが、実に熱心に、一人で何もかも毎日二時間ずつ教えた。僕はこの先生の時間だけ出ればそれで十分であった。そしてそれ以外の先生の時間はできるだけ休むことにきめた。

 ちょうどその頃だ。日露の間の戦雲がだんだんに急を告げて来た。愛国の狂熱が全国に漲った。そしてただ一人冷静な非戦的態度をとっていた万朝報までが急にその態度を変え出した。幸徳と堺と内村鑑三との三人が、悲痛な「退社の辞」をかかげて万朝報を去った。
 そして幸徳と堺とは別に週刊『平民新聞』を創刊して、社会主義と非戦論とを標榜して起った。
 これまで僕は、それらの人とは、ただ新聞上の議論と、時に本郷の中央会堂で開かれた演説会での雄弁とに接しただけで、直接にはまだ会ったことがなかった。しかしこの旗上げには、どうしても一兵卒として参加したいと思った。幸徳の『社会主義神髄』はもう十分に僕の頭を熱しさせていたのだ。
 雪のふるある寒い晩、僕は初めて数寄屋橋の平民社を訪れた。毎週社で開かれていた社会主義研究会の例会日だった。
 玄関をはいったすぐ左の六畳か八畳の室には、まだ三、四人の、しかも内輪の人らしい人しかいなかった。そしてその中の年とった一人と若い一人とがしきりに何か議論していた。僕は黙って、そこから少し離れて、壁を背にして坐った。議論は宗教問題らしかった。年とった方はあぐらをかいて、片肱を膝に立てて顎をなでながら、しきりに相手の青年をひやかしながら無神論らしい口吻をもらしていた。青年の方はきちんと坐って、両手を膝に置いて肩を怒らしながら、真赤になって途方もないようなオーソドクスの議論に、文字通りに泡を飛ばしていた。そしてその間に、ちょいちょいと、もう一人の年とったのが、それが堺であることは初めから知っていた、先きの男ほど突っこんでではないがやはりその青年を相手に口を入れていた。
 僕はその青年の口をついて出る雄弁には驚いたが、しかしまたその議論のあまりなオーソドクスさにも驚いた。僕も彼とは同じクリスチャンだった。が、僕は全然奇蹟を信じないのに反して、彼はほとんどそれをバイブルの文句通りに信じていた。僕は自分の中にあるものと信じていたのに反して、彼は万物の上にあってそれを支配するものと信じていた。僕はこんな男がどうして社会主義に来たんだろうとさえ思った。そして無神論者らしい年とった男の冷笑の方にむしろ同感した。
 この年とった男というのは久津見蕨村で、青年というのは山口孤剣だった。
 やがて二十名ばかりの人が集まった。そしてたぶん堺だったろうと思うが、「きょうは雪も降るし、大ぶ新顔が多いようだから、講演はよして、一つしんみりとみんなの身上話やどうして社会主義にはいったかというようなことをお互いに話ししよう」と言い出した。みんなが順々に立って何か話した。ある男は、「私は資本家の子で、日清戦争の時大倉が罐詰の中へ石を入れたということが評判になっているがあれは実は私のところの罐詰なんです、もっともそれは私のところでやったんではなくて、大倉の方である策略からやったらしいんではあるが」と言った。
「それじゃ、やはり大倉の罐詰じゃないか。どうもそれや、君のところでやったというよりは大倉がやったという方が面白いから、やはり大倉の方にして置こうじゃないか。」
 こう言ったのもやはり堺だったろうと思うが、みんなも「そうだ、そうだ大倉の方がいい」と賛成して大笑いになった。その資本家の子というのは、今の金鵄ミルクの主人辺見なんとかいうのだった。
 もうほとんど最後近い頃に僕の番が来て、僕も、「軍人の家に生れ、軍人の間に育ち、軍人の学校に教えられて、軍人生活の虚偽と愚劣とをもっとも深く感じているところから、
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