里の、飯倉の末川という家へも行った。山田の家の心地よさに酔うていた僕は、末川家のさらに幾倍もの贅沢に少々驚かされた。
家は上と下とに二軒あった。下は妾宅で上は本宅だった。長男が一人本妻の子でしかもそれは馬鹿で、あとはみな男も女も綺麗な、もと烏森とかにいたという妾の子だった。お繁さんもその姉さんも勿論この妾の子だった。お繁さんの下にもまだ女の子が二人いた。そして下の家には妾とそれらの女の子とだけがいた。みんなはその妾を自分のほんとうのお母さんを、栄ちゃんと呼んでいた。
食事時には、ふだんは男ばかりいる上の家へみんなが集まった。僕も行けばきっとこの上の家の、西洋室の応接間にはいってソファの上に横になっていた。
僕はこの家で初めて電話というものを知った。また、お繁さんの姉さんの手で初めてピアノというものの音を聞いた。僕はこの家のみんなが、その綺麗でそしてお上品な中に、どこかしら冷たいものを持っていることに気がついた。が、それでもやはり、その贅沢な生活を味いに、時々遊びに行かない訳には行かなかった。
末川家は鹿児島の家老の家柄で、その主人はもと海軍の主計監とかをしていたと聞いた。そして、その頃は実業に関係していたようだった。山田家では最初この家との縁談があった時、妾の子ではと一時躊躇したのだそうだが、川村大将とか高島中将とかが中にはいって、無理にもらわしてしまったのだのとかと聞いた。その後、今の皇太子や皇子達が川村大将の家にいた頃、良さんの子供等はよくそこへ遊びに行って、熊だの象だののおもちゃをもらって来た。
良さんは今少将でどこかの旅団長を勤めている。そしてお繁さんの姉さんの方の田中は、中将になって今ワシントンの太平洋会議に陸軍代表の主席として出ている。ついでに言うが、山田の伯父は、とうに中将で予備になって、今は和歌山に隠居している。
名古屋と大阪とでは、名古屋では父方の親戚を、大阪では母方の親戚を歩き廻った。
が、そのどちらでも、商家や農家ばかりなので、そしてつましい家ばかりなので、一向面白くなかった。そしてすぐまた東京に帰って、一カ月あまり遊んでいた。
六
この旅行は僕に金を使うことを覚えさした。それまで僕は、小遣銭というものは一文ももらったことがなく、いるものは何でも通いで持って来たのであった。しかしもうそれでは済まなくなった。
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