すもの。そして早く逃げればいいのに、その箒をふりあげてもぼんやりして突っ立っているんでしょう。なお癪にさわって打たない訳には行かないじゃありませんか。」
 母は僕の頭をなでながら、やはり軍人の細君の、仲好しの谷さんに言った。
「でも、箒はあんまりひどいわ。」
 谷のお母さんもやはり家の母と同じように大勢の子持だった。そしてやはりよくその子供を打った。しかし母にこの抗議をする資格は十分にあったのだ。
「それや、ひどいとは思いますがね。もうこう大きくなっちゃ、手で打つんではこっちの手が痛いばかしですからね。」
 谷のお母さんは、優しい目で「でも、ひどいわね」という意味を僕に見せながら、それでもやはりこれには同感しているようだった。そして話はお互いの子供の腕白さに移って行った。
 が、僕は母の言うこの「馬鹿なんですよ。」に少々得意でいた。そして腹の中でひそかにこう思っていた。
「箒だってそんなに痛かないや。それに打たれるからって逃げる奴があるかい。」

 父はちっとも叱らなかった。
「あなたがそんなだから、子供がちっとも言うことを聞かないんですよ。」
 母はよく父を歯がゆがって責めた。そして日曜で父が家にいる時には、今日こそは是非叱って下さいと迫った。
「今日は日曜だからな、あしたうんと叱ってやろう……うん、そうか、また喧嘩をしおったのか……何、勝った?……うん、それやえらい、でかした、でかした……」
 父は母が迫れば迫るほど呑気だった。

 母はたべ物にずいぶん気むずかしかった。ことに飯にはやかましかった。
「僕のもめっかちだよ。」
 母が飯の小言を言うと、僕もすぐそれについて雷同した。
「心が曲っていると、めっかちのご飯が行くんだ。お父さんのなんか、それやおいしい、いいご飯だ。」
 僕は父がこう言うんで、ほんとうかしらと思って、無理に父の茶碗の飯を食って見た。しかしそれは、勿論、やはりめっかちだった。
 父はこんなふうで、女中達にも小言一つ言ったことがなかった。

 父は家のことも子供のこともすっかり母に任しきりにしていたのだ。それで、小言も言わない代りに、家のことや子供等とはまるで没交渉でいたのだ。朝早く隊へ出て、夕方帰って来て、夜は大がい自分の室で何か読むか書くかしていた。で、子供等は朝飯と夕飯の時のほかは、めったに父と一緒のことはなかった。
 それでも父は僕を軍
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