したかというようなことはまるで知らなかった。
この盲の手をほんの偶然に手引してくれたのが万朝報なのだ。僕はこの万朝報によって初めて、軍隊以外の活きたいろんな社会の生活を見せつけられた。ことにその不正不義の方面を目の前に見せつけられた。
しかしその不正不義は僕の目には、ただ世間の単なる事物として映り、単なる理論としてはいったくらいのことで、それが僕の心の奥底を沸きたたせるというほどのことはなかった。それより僕はその新聞全体の調子の自由と奔放とにむしろ驚かされた。そしてことに秋水と署名された論文のそれに驚かされた。
彼の前には、彼を妨げる、また彼の恐れる、何ものもないのだ。彼はただ彼の思うままに、本当にその名の通りの秋水のような白刃の筆を、その腕の揮うに任せてどこへでも斬りこんで行くのだ。ことにその軍国主義や軍隊に対する容赦のない攻撃は、僕にとってはまったくの驚異だった。軍人の家に生れ、軍人の間に育ち、軍人教育を受け、そして軍人生活の束縛と盲従とを呪っていた僕は、ただそれだけのことですっかり秋水の非軍国主義に魅せられてしまった。
僕は秋水の中に、僕の新しい、そしてこんどは本当の「仲間」を見出したのだ。が、たった一つ癪にさわったのは、僕が水のしたたるような刀剣を好きなところからひそかに自ら秋水と号していたのを、こんど別に秋水という有名な男のあることを知って、自分のその号を葬ってしまわなければならないことだった。
それと、もっと近くにいて僕の目をあけてくれたのは、同じ下宿のすぐそばの室にいた佐々木という男だった。彼はもう二、三年前に早稲田を出て、それ以来毎年高等文官の試験を受けては落第している、三十くらいの老学生だった。いつも薄ぎたない着物を着て、頭を坊主にして、秋田あたりのズウズウ弁で愛嬌のある大きな声をだして女中を怒鳴っていた。その顔も厳めしそうな八字髯は生やしていたが、両頬に笑くぼのある、丸々とした愛嬌面だった。友達のない僕はすぐこの老書生と話し合うようになった。彼は議論好きだった。そして僕のような子供をつかまえても議論ばかりしていた。僕も負けない気で、秋水の受売りか何かで、盛んに泡を飛ばした。
それから、この佐々木の友人で、フランス語学校で同じ高等科にいた小野寺というのと知った。これもやはり、二、三年前に早稲田を出て、その頃は研究科でたった一人で建部博
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