違いだった。見渡すところ、どいつの手足だって、自分の脳髄で左右せられているものはない。みんな、自分達の胃の腑の鍵を握っている奴の脳髄で、自由自在に働かされているのだ。ずいぶん馬鹿気きった話だが、事実は何とも仕方がない。
 そこで俺は、俺の胃の腑の鍵を、そいつの手から取りもどそうと思った。しかしここでもまた、俺ひとりの胃の腑の鍵を、そいつから奪いとることは、とてもできない仕事であった。俺の胃の腑の鍵とみんなの胃の腑の鍵とが、そいつの手の中で、やっぱり巧みにもつれ合い結び合っていて、どうしても俺ひとりのだけを抜き取る訳に行かない。
 またそいつのまわりには、いろんな番人がいる。みんな鎖をからだ中に巻きつけて、槍だの弓だのを持って立っている。恐くって寄りつけるものでない。
 俺はほとんど失望した。そして俺のまわりの奴等を見た。
 鎖で縛られていることも知らんでいるような奴が大勢いる。よし知っていても、それがありがたいものだと思っている奴も大勢いる。ありがたいとまでは思わないが、仕方がないと諦めて、やっぱりせっせと鎖を造っている奴も大勢いる。鎖を造ることも馬鹿らしくなって、見張りのすきを窺ってはちょいちょい手を休めて、自分の頭の中で勝手気儘な空想妄想を画きながら、俺は鎖に縛られているのではない、俺は自由の人間だ、などと熱にうかされてたわ言を言っている奴も大勢いる。馬鹿馬鹿しくって、とても見ていられたものでない。
 急に俺は目を見張った。俺は俺の仲間らしい奴等を見つけたのだ。
 人の数も少ない。かつあちこちに散らばっている。しかしこいつらはみんな、主人の手の中にある、みんなの胃の腑の鍵ばかりを狙っているようだ。そして俺と同じように、自分等ばかりの鍵を奪いとることはとてもできないと観念してか、しきりと近所の奴等にささやいて、団結を説いている。
「主人の数は少ない。俺達の数は多い。多勢に無勢だ。俺達がみんな一緒になって行けば、一撃の下に、あの鍵を奪い返すことができる。」
「しかし正義と平和とを主張する俺達は、暴力は慎まなければならぬ。平和の手段で行かなければならぬ。しかもそれで容易くやれる方法があるんだ。」
「俺達は毎年一度、俺達の代表者を主人のところへ出して、俺達の生活の万事万端をきめている。今でこそ、あの会議に列なる奴等はみんな主人側の代表者だが、これからは俺達の方の本当の代表者を出すことに勉めて、あの会議の多数党となって、そうして俺達の思うままに議決をすればいいんだ。」
「みんなは黙って鎖を造っていればいい。鎖をまきつけていればいい。そしてただ、数年日に来る代表者改選の時に、俺達の方の代表者に投票をすればいいんだ。」
「俺達の代表者は、だんだん俺達の鎖をゆるめてくれると同時に、最後に、俺達の胃の腑の鍵を主人の手から奪い取ってしまう。そして俺達は、この鎖を俺達の代表者の手にあずけたまま、俺達の理想する新しい組織、新しい制度の工場にはいるんだ。」
 俺は一応、もっともな議論だとも思った。しかしただその数をたのみにしているところ、また自分よりも他人をたのみにしているところなどが、どうも気に食わない。そしてそいつらが科学的だとか言っているその哲学を聴くに及んで、こいつらもやっぱり俺の仲間ではないと覚った。
 こいつらは恐ろしい Panlogists だ。そして恐ろしい機械的定命論者だ。自分等の理想している新しい工場組織が、経済的行程の必然の結果として、今の工場組織の自然の後継者として現れるものだと信じている。したがって奴等は、ただこの経済的行程に従って、工場の制度や組織を変えればいいものと信じている。
 もっともどっちかと言えば俺も Panlogists だ。機械的定命論者だ。けれども俺の論理の中には、俺の機械的定命論の中には、大ぶいろんな未知数がはいっている。俺の理想の実現は、この未知数の判然しない間、必然ではない。ただ多少の可能性を帯びた蓋然である。俺は奴等のように将来の楽観はできない。そして将来に対する俺の悲観は、現在における俺の努力を励まさしめるのだ。
 俺のいわゆる未知数の大部分は人間そのものである。生の発展そのものである。生の能力そのものである。さらに詳しく言えば、自我の能力、自我の権威を自覚して、その飽くところなき発展のために闘う、努力そのものである。
 経済的行程が、俺達の工場の将来を決する、一大動力であることは疑わない。けれどもその行程の結果として、いかなる組織と制度とをもたらすべきかは、かの未知数、すなわち俺達の能力と努力とに係わるものである。組織といい制度という、それは人間と人間との接触を具体化したものに過ぎない。零と零との接触、零と零との関係は、いかようにしても、要するに零である。
 けれども俺は、今日すでにできている
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