ン著近代思想史、ゴーリキー短篇集。以上幸徳家。
 近代政治史、ゴーリキー平原。以上上司家。
 外に前に言ったのはどうした。
   *
 堀保子宛・明治四十三年四月十三日
 戸籍法違犯とかいうので、この八日に裁判所へ喚び出された。ちょうど一年半目に人間の住む社会なるものを例の金網ごしにのぞき見した。僕等の住んでいる国に較べると、妙に野蛮と文明とのごっちゃまぜになったとこのように感じた。いちょう返しがひどく珍らしかった。桜も四、五本目についた。事は相続の手続きが遅れたとかいうのでほんのちょっとした調べではあったが、口の不自由になっているのには自分ながらほとほとあきれた。それと最初の答から海東郡だの神守《かもり》村だのという言いにくい言葉ばかりなんだから。僕はこんど出たら、どこか加行や多行の字のないところに転籍する。その後その決定が来た。科料金弐拾銭。
 ことしは四月にはいってから毎日のように降ったり曇ったりばかりしていて、したがって寒いので少しも春らしい気持をしなかったが、きょうはしばらく目のいい天気だ。何だかぽかぽかする。このぽかぽかが一番社会を思出させる。社会と言っても別に恋しいところもないが、ただ広々とした野原の萌え出づる新緑の空気を吸って見たい。小僧※[#始め二重括弧、1−2−54]飼犬の名※[#終わり二重括弧、1−2−55]でも連れて、戸山の原を思うままに駈け廻って見たい。足下と手を携えて、と言いたいが、しかし久しい幽囚の身にとってそんな静かな散歩よりも激しい活動が望ましい。寒村などはどうしているか。
 僕等の室の建物に沿うて、二、三間の間を置いて桐の苗木が植わっている。三、四尺から六、七尺の丈ではあるが、まだ枝というほどのものはない。何のことはない。ただ棒っ切れが突っ立っているようなものだ。それにちょっとした枝のあるものがあっても、子供の時によく絵草紙で見た清正の三本槍の一本折れたのを思い出されるくらいの枝だ。こんなのが冬、雪の中に、しかもほかに何にもない監獄の庭に突立っているさまは、ずいぶんさびしい景色だ。しかしこの冬枯れのさびしい景色が僕等の胸には妙に暖かい感じを抱かせた。棒っ切れがそろそろ芽を出して来る。やがてはわずかに二、三尺の苗木にすら、十数本の、あの大きな葉の冠がつけられる。その頃には西川が出よう。
 うちのことについて、いろいろ書かなければならんこともあると思うが、足下からの便りがないので、何がどうなっているのか少しも事情が分らない。足下からの手紙はたしか十一月の父の死の知らせが最後だ。一月には松枝※[#始め二重括弧、1−2−54]妹※[#終わり二重括弧、1−2−55]と勇※[#始め二重括弧、1−2−54]三男※[#終わり二重括弧、1−2−55]からのが来た。三月には足下のと思って楽しんでいたら、伸※[#始め二重括弧、1−2−54]次弟※[#終わり二重括弧、1−2−55]の、しかも一月に出した、用事としてはすでに時の遅れた、内容の無意味極まる、実に下らないものを見せられた。面会はいつもあんな風にいい加減のところで時間だ時間だと言っては戸を閉められてしまうのだし、用の足りぬこともまたおびただしいかなだ。今うちに誰と誰がどうしているのやら、またどんな経済の事情やら、その他万端のことを本月の面会の時によく話の準備をして来て、簡単にそして詳細によく分るように話してくれ。
 足下は初めて子供等の世話をするのだが、どうだいずいぶんうるさい厄介なものだろう。※[#始め二重括弧、1−2−54]継母は父のいくらもない財産の大部分を持って去った。そしてすでに嫁入っている二人の妹の外の六人の弟妹が保子の許に引き取られた。※[#終わり二重括弧、1−2−55]僕は別にむずかしい注文はしない。ただみんなを活発な元気な子供に育ててくれ。ナツメ※[#始め二重括弧、1−2−54]飼猫※[#終わり二重括弧、1−2−55]は急にいたずらをされる仲間ができて困っていやしないか。
 去年の十月からほとんど毎月の手紙のたびにドイツ文の本の注文をしているのだが、どうしたのだろう、さらに送ってくれないじゃないか。せっかくできあがりかけた大事なところを半年も休みにされてはまたもとのもくあみに帰ってしまう。大至急何か送ってくれ。
 目録の中から安い本を書き抜こう。
 フンボルト著、アンジヒテン・デル・ナトゥル。
 ヤコブセン著、ゼックス・ノベルレン。
 ヴィッセンシャフトリヘ・ビブリオテク 6−8.[#「6−8.」は縦中横]17.[#「17.」は縦中横]73.[#「73.」は縦中横]
 ベルタ・フォン・ズットネル著、ディ・ワッヘン・ニイデル。
 しばらくドイツ語を休んだかわりに、ロシア語に全力を注いだので、こっちは案外にはやく進歩した。生立の記※[#始め二重括弧、1−2−54]トルストイ※[#終わり二重括弧、1−2−55]のようなものなら何の苦もなく読める。来月中にまた何か送ってくれ。先月の末からの差入れのものは大がい不許になった。近日中に送り返す。なお次のものを至急送ってくれ。※[#始め二重括弧、1−2−54]これは、実はいったん不許になったものを、また別な名で差入れる指図をしたものだ※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 伊文。プロプリエタ(経済学)。フォンジュアリヤ(哲学の基礎)、ロジカ(倫理学)。
 英文。ルクリュ著、プリミチフ(原人の話)。ドラマチスト(文学論)。スカンジネビアン(北欧文学)。フレンチ・ノベリスト(仏国文学)。
 仏文。ラポポルト著、歴史哲学。ノビコオ著、人種論。
 なおほかに英文で、ウォドのピュア・ソシオロジイとサイキカル・ファクタアス、ギディングスのプリンシプル・オブ・ソシオロジイ。
 ここまで書いたら、体重をとるので呼び出された。十三貫四百目。去年の末からとるたびに百目二百目ずつ増える。からだの丈夫なのはこれで察してくれ。
   *
 堀保子宛・明治四十三年六月十六日
 不許とあきらめていた四月上旬出の手紙を五月の半ばに見せられた。たぶん三月の半ばに一月出の※[#始め二重括弧、1−2−54]伸※[#終わり二重括弧、1−2−55]のを見たから、それから満二カ月目※[#始め二重括弧、1−2−54]懲役囚は二カ月に一回ずつしか発信受信を許されていない※[#終わり二重括弧、1−2−55]の今日まで延ばされたのだと思う。お上の掟というものはまことに峻厳なものだ。しかし四月下旬出のあの手紙は即刻見ることができた。これはまたたぶん臨時にというお恵みに与かったのだと思う。お上の掟にはまたこの寛容がある。ともかくこの一通の手紙で万事の詳しいことが分ったのではなはだありがたかった。
 花壇を作ったということだが、思えば僕等が家を成してからすでに六年に近く、この間自ら花壇を作ることのできたのがわずかに二回、しかも一回だに自分の家の花壇の花を賞したことがない。
 この監獄では僕等の運動場の向うに、肺病患者などのいる隔離監というのがあって、その周囲の花壇がいつも僕等の目を喜ばしてくれる。本年も四月の初めに、何の花だか遠目でよくは分らなかったが、赤い色の大きなのが咲きそめて、今はもう、石竹、なでしこの類が千紫万紅を競うている。そして、この花間を蒼面痩躯の人達が首うなだれておもむろに逍遙している。僕は折々自分のからだのはなはだ頑健なのを嘆ずることがある。色も香もない冷酷な石壁の間に欠伸しているよりは、むしろ病んで蝶舞い虫飛ぶの花間に息喘ぐ方が、などと思うことがある。帰る頃にはコスモスが盛んだろうということだが、ここにもコスモスは年の終りの花王として花壇に時めく。お互いにこのコスモスの咲く頃を鶴首して待とう。
 去年の春は春風吹き荒んで、揚花雪落覆白蘋、青鳥飛去銜赤巾というような景色だったが、ことしの春の世の中はどうだったろう。いずれ面白い話がいろいろあることと想像している。
 兄が近所に来てくれたので家のことはまずまず安心した。こんどの兄の子は男か女か。兄の細君にもいろいろ世話になるだろう。よろしく。進※[#始め二重括弧、1−2−54]三弟※[#終わり二重括弧、1−2−55]の腕白には大ぶ困らせられたようだね。人間の子を育てるのはお雛様や人形を弄ぶのとは少し訳が違う。もし足下等の女の手に自由自在になるような男の子なら、僕はその子の将来を見かぎる。教育の要は角をためることでなくして、ただその出る方向を指導することにある。進はかつてその容貌もっとも僕に似ると言われていたが、あるいはその腕白もそうなのだろう。それにあの子は少し吃りやしないか。よくもいいところばかり似るものだ。その後学校の方はどうなったか。勇は何かしでかして家に来られないようになっているとのことだったが、まさか今なおそんな事情が続いているのではあるまいね。彼は今、少年期から青年期に移る、肉体上および精神上に一大激変のあるもっとも危険な年頃にある。そして出づれば工場の荒い空気の中、帰れば下宿屋の冷たい室の中、というはなはだ情けない、そしてはなはだ危険なところにある。休日などにはなるべく家へ来て、一日なり半日なりの暖かい歓を尽させてやってくれ。
 伸の徴兵検査はどうなったか。弟妹等一同に留守中の心得というようなものを書きたいと思ったが、許されないので致し方がない。五カ月の後相ともに語るまでおとなしく待つよう伝えてくれ。
 こんどの秋水等の事件について二つお願いがある。一つはかつて巣鴨の留守中に借りた三十円の金をこの際返してもらいたい。こんな時にでも返すのが、返す方でもはなはだ心持よし、また返される方でもはなはだありがたかろう。も一つは少し厄介なことだが、もしお母さんを呼ぶ必要があるなら、そしてそのいるところがないなら、家で世話をしてやってくれないか。僕は足下の秋水に対する悪感情はよく知っている。しかし、この際これほどの雅量はあってほしい。また、かくのごときは、彼に対するもっともよき復讐だと思う。もし御承知なら、一度秋水と会って相談してくれ。
 お為さんは、古本を買っては売りしているということだが、本郷の例の本屋と協定して、初めに十円か十五円出して置いて、毎月五十銭くらいの割で本を借り出すような便利はできまいか。月に四、五冊ずつで二カ月目には返せる。
 今見たい本は、『帝国文学』の発行所から出るもので物集博士の日本文明史略、長岡博士のラジュウムと電気物質観、鳥居氏の人種学、平塚学士の物理学輓近の発展、シジュウィックの倫理学説批判、高桑博士のインド五千年史、物理学汎論(著者の名は忘れた、二冊もの)以上、『帝国文学』の広告を見よ。
 文学ものでは、博文館の通俗百科全書中の文学論、折々言う抱月の近代文芸の研究、それから早稲田の文芸百科全書、外に何か最近哲学史というようなもの。
 経済学では、金井博士の社会経済学、福田の経済学研究、同氏の国民経済学、イリスの経済学提要、早稲田のマーシャル経済学、およびコンラッドの国民経済学。上記の研究は坂本が持っている筈だ。彼はなお、天界の現象だの、その他科学もののいい本を持っているが借りてくれ。先生相変らずイカンヨかな。
 早稲田の講義録の中の生物学、樗牛全集の一、二、三はないのか。あの持主によろしく。梁川の文集、早稲田の時代史。
 欧文のものを禁ぜられたのではなはだ困っているが、露は猟人日記、独はゲーテ文集、この二つを幾度も繰返して読むつもりだ。猟人日記の持主に、あれを出る頃まで借りられるか尋ねてくれ。
 狂風がフランス語をやってるのは感心感心。若宮、守田など病気如何に。社会にいるものはなぜそう体が弱いのだろうね。
 この雨が止んだら急に激暑が来るだろう。足下のお弱いお体も御大事に。
 書画骨董の景気は如何に。子供も大きくなったろうね。山田へ行く時があったら、細君に米川のお悔みをよろしく頼む。
 この手紙の着くのと足下の面会に来るのとどちらが早いか。四月の足下の手紙と僕の手紙との間に、期せずして同じような事柄の二、三あったのは面白く感じた。
 僕の知って
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