ちょっとした大きな本だ。差入れを乞う。
 何か英語の雑誌で交換に送って来るものがあったら百瀬に差入れてやってくれ。
 いつかのエスペランタユ・プロザゾエ(エス語散文集)、ない筈はないのだが、あるいは表紙がとれているかも知れん。もう一度さがして見てくれ。僕への書物の差入れは、ついででもなければ六月の面会の時までは必要ない。
 諸君に仲よくするように。よろしく。
   *
 堀保子宛・明治四十二年六月十七日
 ちょうど一年になる。早いと言えばずいぶん早くもあるが、また遅いと言えばずいぶん遅くもある。妙なものだ。
 窓ガラスに映る痩せこけた土色の異形の姿を見ては、自分ながら多少驚かれもするが、さりとてどこと言ってからだに異状があるのでもない。一食一合七勺の飯を一粒も残さず平らげて、もう一杯欲しいなあと思っているくらいだ。要するに少しは衰弱もしたろうけれど、まず依然たる頑健児と言ってよかろう。
 ただ月日の経つに従ってますます吃りの激しくなるのには閉口している。この頃ではほとんど半唖で、言いたいことも言えないから何事も大がいは黙って通す。これは入獄のたびに感ずるのだが、こんどはその間の長いだけそれだけその度もひどいようだ。不愉快不自由この上もない。
 かくして一方では話す言葉は奪われたが、一方ではまた読む言葉を得た。ドイツ語もいつか譬えて言ったような、蛙が尾をはやしたまま飛んで歩く程度になった。シベリア※[#始め二重括弧、1−2−54]ジョルジ・ケナンの『シベリアにおける政治犯人』の独訳※[#終わり二重括弧、1−2−55]ぐらいのものなら字引なしでともかくも読める。イタリア語は本がなかったので碌に勉強もしなかったのだけれど、元来がフランス語とごく近い親類筋なので、一向骨も折れない。さて、こんどはいよいよロシア語を始めるのだが、これは大ぶ語脈も違うので少しは困難だろうとも思うが、来年の今頃までにキットものにして見せる。
 いつかの手紙に近所に英語を教えるところができたから行こうと思うとあった。また先月の手紙にもまた○○へ行こうと思うとあった。思うのもいい、しかし本当に始めればなお結構だ。幸い若宮が近くに住むようになったから、頼んで先生になって貰うといい。語学の先生としてもまた他の学問の先生としても、○○よりはどれほどいいか知れない。ただとかく女は語学を茶の湯活花視するので困る。もしやるなら真面目に一生懸命にやるがいい。そして僕の出獄の頃には一とかどのものにして置いてくれ。
 先月の手紙で大体の様子はわかった。さすがに世の中は春だったのだね。しかも春風吹き荒むという気味だったのね。※[#始め二重括弧、1−2−54]幽月と秋水との情事を指す※[#終わり二重括弧、1−2−55]おうらやましいわけだ。しかし困ったことになったものだ。と言っても、今さら何とも仕方があるまい。善悪の議論はいろいろあることだろうが、なるべく批難することだけは止めてくれ。汝等のうち罪なきものこれを打て。僕などはとうてい何人に向っても石を投ずるの権利はない。
 そんな事情から足下は一人の後見を失い、またほとんど唯一の同性の友人を失ってしまった。今後は守田※[#始め二重括弧、1−2−54]有秋君※[#終わり二重括弧、1−2−55]とか若宮とかの、よく世話をしてくれる人達に何事も相談して、周到な注意の下に行動するがいい。その上での出来事なら、たとえ僕の「将来の運動に関係」しても、また僕の「面目に係わ」っても、僕は甘んじてその責任を分ける。ただ女の浅はかな考えから軽はずみなことをしてくれるな。
 幽月は告発されているよし。こんどはとても遁れることはできまいと思うが、平生の私情はともかくとして、できるだけの同情は尽してくれ。
 雑誌の売れ行きについては多少悲観もしていたが、先日の話によれば思ったほど悪くもなさそうなので大いに安心した。あんな小さい雑誌で、ともかくも一家が食って行けるとはありがたいことだ。しかしこれはみな編集者を始め大勢の寄書家諸君のお蔭だ。そのつもりで、足下は一方に広告や売捌きに勉強して、それらの人々の労に報ゆるとともに、一方にはできるだけその雑誌の上で他の人々の便宜をはかる心掛けを持ってくれ。たとえば、仲間のものの商売の紹介をするとかあるいは広告をするとかして。
 社名は兄キの意見通り保文社とかかえる方がよかろう。しかし出版は当分見合すがいい。そしてもしそんな金があったら、広告の方に費ったらよかろう。
 次の書籍差入れを乞う。
 ウォド著ソシオロジー(社会生理学)、ヘッケル著(人類史、原名は忘れた)以上英文。※[#始め二重括弧、1−2−54]監獄では、とかく社会学とか進化論とかいう名を嫌うので、この二冊の本は不許可になった。が、こうして同じ本を名を変えて入れて貰
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