い菊の舅父は弁護士だとかいうように聞いていますが、そんな人にでも頼んで至急その法律上の手続きをして下さることをお願いします。これは先きに父上から堺までお話もあったことですし、別に御異存のあろう筈もないと思います。
もう一つのお願いというのは金のことです。はなはだ申上げにくいのですけれど、何卒お聞き届けを願います。私、この一年ほど前からある学問の研究に着手しています。それはヨーロッパでもまだごく新しいので、日本の学者なぞはほとんど看過している学問上の新天地と言うべきものです。すなわち生物学と人類学と社会学(社会主義とは異也)とのこの三新科学の相互の関係です。もしこれが十分に研究できれば、今日の人類社会に関する百般の学問は、ほとんどその根底から新面目を施さねばならぬこととなるのです。私の先きの小著『万物の同根一族』などはそのきわめて小なる部分です。
私はこの二年有余の長い獄中を、せめてはこの研究の完成によって慰められたいと思っています。もとより完成ということはむずかしいでしょうが、この在監中に少なくとも一大学を卒業する程度ぐらいまでは、容易に達し得らるるでしょう。しかしこの研究には大ぶ金がいります。まずこの間に百冊の本は読めるでしょうが、その価は決して三百円を下りますまい。そこで私の最後の無心として、父上にお願いします。もし私のような不孝児でもなお一片子として思うのお情けがありますならば、また私をして単純なる謀反人としてこの身を終らしめず、なお一学者としての名を成さしめんと思召すならば、何卒この三百円だけの金を恵んで下さい。もっとも一時でなくとも、本年と来年とに三度ほどに分けて下すっても宜いのです。
金と言えば例の電車事件の時の保証金、あれはなおしばらくの間お貸しを願います。実は請取書がなくとも返して貰うことができたので、私の入獄のものいり[#「ものいり」に傍点]の際にほとんど費ってしまってあるのです。はなはだ申し訳もありませんけれど、何卒お許しを願います。
私は獄中すこぶる健康でいます。留守居の保子は友人や同志の助けによってともかくもその日を暮して行けそうです。この二点は御安心を願います。
最後に御両親および諸兄弟の健康と祝福を祈ります。
父上様
保子に言う。この手紙を持って静岡へ行って、そしてなおいろいろ詳しい事情を足下から話して来てくれ。また、その詳しい事情というのを僕から足下に話したいから、この手紙の着次第、至急面会に来てくれ。これはすでに典獄殿にも願ってある。
この手紙の公表は禁ずる。
たしか去年の今日は巣鴨を放免になった日だったね。
*
堀保子宛・明治四十一年十二月十九日
もうここの生活にもまったく慣れてしまった。実を白状すれば、来た初めには多少の懸念のないのでもなかった。ああこの食物、ああこの労働、ああこの規則、これではたして二カ年半の長日月を堪え得るであろうか、などと秋雨落日の夕、長太息をもらしたこともあった。面会のたびごとに「痩せましたね」と眉をひそめられるまでもなく、細りに細って行く頬のさびしさは感じていた。しかし月を経るに従ってこれらの憂慮も薄らいで来た。そしてついに、今日ではそれがほとんどゼロに帰してしまったのみならず、さらに余計な余裕さえできて来るようになった。
それに刑期の長いということが妙に趣きを添える。今までのように二、三カ月の刑の時には、入獄の初めの日からただもう満期のことばかり考えている。退屈になると石盤を出して放免の日までの日数を数える。裏を通る上り下りの汽車の響きまでがいやに帰思を催させる。したがって始終気も忙しなく、また日の経つのもひどく遅く感ぜられた。しかし、こんどはそんなことは夢にも思わず、ただいかにしてこの間を過ごすべきかとのみ思い煩う。そして、これこれの本を読んで、これこれの研究をして、などと計画を立てて見ると、どうしてももう半年か一年か余計にいなければとても満足な調べのできぬ勘定になる。さあ、こうなるともう落ちついたものだ。光陰も本当に矢のごとく過ぎ去ってしまう。長いと思った二年半ももう二年の内にはいった。ついでに言う、僕の満期は四十三年十一月二十七日だそうだ。
先日の面会の時に話した通り若宮※[#始め二重括弧、1−2−54]卯之助君※[#終わり二重括弧、1−2−55]に次のように言ってくれ。この二カ年間に生物学と人類学と社会学との大体を研究して、さらにその相互の関係を調べて見たい。ついては通信教授でもするつもりで、組織を立てて書物を選択して貸して[#「貸して」は底本では「借して」]くれないか。毎月二冊平均として総計五十冊は読めよう、と。そしてもし承諾を得たら、第一回分として至急三、四冊借りて送ってくれ。
なお、そのかたわら、元来好きでそして怠
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