轤キぐに多年宿望のクロの『自伝』をやりたいと思っている。その熟読中だ。
枯川のイタリア語のハガキの意味はわからんと言ってくれ。保子に判決謄本とアナルシーと授業料とを忘れないように、ことに授業料を早くと伝えてくれ。留守宅のことよろしく頼む。マダムによろしく。同志諸君、ことに深尾、横田の二兄によろしく。さよなら。
*
山川均宛・明治四十年十月十三日
きのう東京監獄から帰って来た。まず監房にはいって机の前に腰を下ろす。ホントーに「うち」に帰ったような気がする。
僕は法廷に出るのが大嫌いだ。ことに裁判官と問答するのがいやでいやで堪らぬ。いっそのこと、ロシアのように裁判もしないですぐにシベリアへ逐いやるというようなのが、かえって赤裸々で面白いように思う。貴婦人よりは淫売婦の方がいい。
裁判がすめば一とまず東京監獄へ送られる。門をはいるや否や、いつも僕は南京虫のことを思うて戦慄する。一夜のうちに少なくとも二、三十カ所はかまれるのだもの、痛いやらかゆいやら、寸時も眠れるものじゃない。加うるに書物はなし、昼夜時の過しようがない。わずか二、三日して巣鴨に帰ると、獄友諸君からしきりに「痩せた痩せた」というお見舞いを受ける。
ただ東京監獄で面白いのは鳩だ。ちょうど飯頃になると、窓の外でバタバタと羽ばたきをさせながら、妙な声をして呼び立てる。試みに飯を一とかたまり投ってやる。すると、どこからとも知れず十数羽の鳩があわただしく下りて来て、瞬くうちに平らげてしまう。また投ってやる。つい面白さにまぎれて、幾度も幾度も続けさまに投ってやる。ある時などは、飯をみんな投ってやってしまって、汁ばかりすすって飯をすましたこともある。あとで腹がへって困ったけれど、あんなことはまたとない。
巣鴨に帰る。「大そう早かったね、裁判はどうだった」などと看守君はいろいろ心配して尋ねてくれる。何んだか気も落ちつく。ホントーに「うち」に帰ったような気がする。
しかしこの「うち」にいるのも、もうわずかの間となった。僕もまた、久しきイナクチヴの生活にあきた。早く出たい。そして大いに活動したい。この活動については、大ぶ考えたこともある。決心したこともある。出たらゆっくり諸君と語ろう。同志諸君によろしく。
兄の家の番地を忘れたから、この手紙は僕の家に宛てた。守田兄によろしく。さよなら。
[#地付き]巣鴨に
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