獄中記
大杉栄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)髯女郎《インテレクチュアル・プロスティテュト》

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   市ケ谷の巻

 前科割り[#「前科割り」はゴシック体]
 東京監獄の未決監に「前科割り」というあだ名の老看守がいる。
 被告人どもは裁判所へ呼び出されるたびに、一と馬車(この頃は自動車になったが)に乗る十二、三人ずつ一組になって、薄暗い広い廊下のあちこちに一列にならべさせられる、そしてそこで、手錠をはめられたり腰縄をかけられたりして、護送看守部長の点呼を受ける。「前科割り」の老看守は一組の被告人に普通二人ずつつくこの護送看守の一人なのだ。いつ頃からこの護送の役目についたのか、またいつ頃からこの「前科割り」のあだ名を貰ったのか、それは知らない。しかし、少なくとももう三十年くらいは、監獄の飯を食っているに違いない。年は六十にとどいたか、まだか、くらいのところだろう。
 被告人どもが廊下に呼び集められた時、この老看守は自分の受持の組は勿論、十組あまりのほかの組の列までも見廻って、その受持看守から、「索引」をかりて、それとみんなの顔とを見くらべて歩く。「索引」というのは被告人の原籍、身分、罪名、人相などを書きつけたいわばまあカードだ。
「お前はどこかで見たことがあるな。」
 しばらくそのせいの高い大きなからだをせかせかと小股で運ばせながら、無事に幾組かを見廻って来た老看守は、ふと僕の隣りの男の前に立ちどまった。そしてその色の黒い、醜い、しかし無邪気なにこにこ顔の、いかにも人の好さそうな細い眼で、じろじろとその男の顔をみつめながら言った。
「そうだ、お前は大阪にいたことがあるな。」
 老看守はびっくりした顔付きをして黙っているその男に言葉をついだ。
「いや、旦那、冗談言っちゃ困りますよ。わたしゃこんど初めてこんなところへ来たんですから。」
 その男は老看守の人の好さそうなのにつけこんだらしい馴れ馴れしい調子で、手錠をはめられた手を窮屈そうにもみ手をしながら答えた。
「うそを言え。」
 老看守はちっとも睨みのきかない、すぐにほほえみの見える、例の細い眼をちょっと光らせて見て、
「そうだ、たしかに大阪だ、それから甲府にも一度はいったことがあるな。」
 とまた独りでうなずいた。
「違いますよ、旦那、まったく初めてなんですよ。」
 その男はやはりしきりともみ手をしながら腰をかがめていた。
「なあに、白っぱくれても駄目だ。それからその間に一度巣鴨にいたことがあるな。」
 老看守はその男の言うことなぞは碌に聞かずに、自分の言うだけのことを続けて行く。その男も、もうもみ手はよして、図星を指されたかのように黙っていた。
「それからもう一度どこかへはいったな。」
「へえ。」
 とうとうその男は恐れ入ってしまった。
「どこだ?」
「千葉でございます。」
 窃盗か何かでつかまって、警察、警視庁、検事局と、いずれも初犯で通して来たその男は、とうとうこれで前科四犯ときまってしまった。そして、
「実際あの旦那にかかっちゃ、とても遣りきれませんよ。」
 と、さっきから不思議そうにこの問答を聞いていた僕にささやいて言った。
 僕の前科[#「僕の前科」はゴシック体]
 本年の三月に僕がちょっと東京監獄へはいった時にも、やはりこの老看守は、その十二年前のやはり三月に僕が初めて見た時と同じように、まだこの前科割りを続けていた。
「やあ、また来たな、こんどは何だ、大分しばらく目だな。」
 老看守はそのますます黒く、ますます醜くなった、しかし相変らず人の好さそうな顔をにこにこさせていた。
 僕は今、この老看守に向った時の懐しいしかし恐れ入った心持で、僕自身の前科割りをする。
 と言っても、実は本当にはよく覚えていないんだ、つい三、四カ月前にも、米騒動や新聞のことでたびたび検事局へ呼び出されていろいろ糺問されたが、その時にもやはり自分の前科のことは満足に返事ができなかった。そしてとうとう、
「あなたの方の調べには間違いなく詳しく載ってるんでしょうから。」
 というようなことで、検事にそれを読みあげて貰って、
「まあ、そんなものなんでしょう。」
 と曖昧に済ましてしまった、ところが、あとでよく考えて見ると、検事の調べにも少々間違いがあったようだ。何でも前科が一つ減っていたように思う。
 当時の新聞雑誌でも調べて見ればすぐに判然するのだろうが、それも面倒だから、今はただ記憶のままに罪名と刑期とだけを掲げて置く。何年何月の幾日にはいって何年何月の幾日に出たのかは、一つも覚えていない。監獄での自分の名の「襟番号」ですらも、一番最初の九七七というたった一つしか覚えていない。これは僕ばかりじゃない。たしかに堺(利彦)にでも山川(均)にでも、山口(孤剣)にでも、その他僕等の仲間で前科の三、四犯もある誰にでも聞いて見るがいい。みんなきっと碌な返事はできやしない。それから次に列べた最初の新聞紙条令違犯(今は新聞紙法違犯と変った)の刑期も、ほんのうろ覚えではっきりは覚えていない。
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一、新聞紙条令違犯(秩序紊乱)三カ月
二、新聞紙条令違犯(朝憲紊乱)五カ月
三、治安警察法違犯(屋上演説事件)一月半
四、兇徒聚集罪(電車事件)二カ年
五、官吏抗拒罪治安警察法違反[#「官吏抗拒罪」と「治安警察法違反」は二行に分かれている](赤旗事件)二年半
[#ここで字下げ終わり]
 これで見ると、前科は五犯、刑期の延長は六年近くになるが、実際は三年と少ししか勤めていない。先月ちょっと日本に立ち寄った革命の婆さん、プレシュコフスカヤの三十年に較べれば、そのわずかに一割だ。堺も山川も山口も前科は僕と同じくらいだが、刑期は山口や山川の方が一、二年多い筈だ。僕なんぞは仲間のうちではずっと後輩の方なんだ。
 初陣は二十二の春、日本社会党(今はこんなものはない)の発起で電車値上(片道三銭から五銭になろうとした時)反対の市民大会を開いた時の兇徒聚集事件だが、三月に未決監にはいってその年の六月に保釈で出た。そしてそのほかの四つの事件は、この兇徒聚集事件が片づくまでの、二年余りの保釈中の出来事なんだ。一から三までの三事件九カ月半の刑期もこの保釈中に勤めあげた。
 こうして二カ月かせいぜい六カ月の日の目を見ては、出たりはいったりしている間に、とうとう二十四の夏錦輝館で例の無政府共産の赤旗をふり廻して捕縛され、それと同時に電車事件の方の片もついたのであった。そして当時のありがたい旧刑法のお蔭で、新聞紙条令違犯の二件を除く他の三件は併合罪として重きによって処断するということで、電車事件の二カ年もまたすでに勤めあげた屋上演説事件の一月半もすべて赤旗事件の二カ年半の中に通算されてしまった。いわばまあゼロになっちゃったんだ。
 検事局では地団太ふんでくやしがったそうだ、そうだろう。保釈中に三度も牢にはいっているのに、保釈中だということをすっかり忘れていたんだ。しかし僕の方ではお蔭さまで大儲けをした。が、その年の十月から今の新刑法になって、同時に幾つ犯罪があっても一つ一つ厳重に処罰することになったから、もう二度とこんないい儲けはあるまい。
 それで二十七の年の暮、ちょうど幸徳等の逆徒どもが死刑になる一カ月ばかり前にしばらく目でまた日の目を見て、それ以来今日までまる七年の間ずっと謹慎している。
 だから、僕の獄中生活というのは、二十二の春から二十七の暮までの、ちょいちょい間を置いた六年間のことだ。そして僕が分別盛りの三十四の今日まだ、危険人物なぞという物騒な名を歌われているのは、二十二の春から二十四の夏までの、血気に逸った若気のあやまちからのことだ。
 とんだ木賃宿[#「とんだ木賃宿」はゴシック体]
 もっとも、その後一度ふとしたことからちょっと東京監獄へ行ったことがある。しかしそれは決して血気の逸りでもまた若気のあやまちでもない。現に御役人ですら「どうも相済みません」と言って謝まって帰してくれたほどだ。それは本年のことで、事情はざっとこうだ。
 三月一日の晩、上野のある仲間の家で同志の小集りがあった。その帰りに、もう遅くなってとても亀戸までの電車はなし、和田の古巣の涙橋の木賃宿にでも泊って見ようかということになって、僕の家に同居していた和田、久板の二人と一緒に、三輪から日本堤をてくって行った。この和田も久板も今は初陣の新聞紙法違犯で東京監獄にはいっているが、本年の二科会に出た林倭衛の「H氏の肖像」というのはこの久板の肖像だ。
 吉原の大門前を通りかかると、大勢人だかりがしてわいわい騒いでいる。一人の労働者風の男が酔っぱらって過ってある酒場の窓ガラスを毀したというので、土地の地廻りどもと巡査がその男を捕えて弁償しろの拘引するのと責めつけているのだった。
 その男はみすぼらしい風態をして、よろよろよろけながらしきりに謝まっていた。僕はそれを見かねて仲へはいった。そしてその男を五、六歩わきへ連れて行って、事情を聞いてそこに集まっているみんなに言った。
「この男は今一文も持っていない。弁償は僕がする。それで済む筈だ。一体、何か事あるごとに一々そこへ巡査を呼んで来たりするのはよくない。何でもお上にはなるべく御厄介をかけないことだ。大がいのことは、こうして、そこに居合した人間だけで片はつくんだ。」
 酒場の男どももそれで承知した。地廻りどもも承知した。見物の弥次馬どもも承知した。しかしただ一人承知のできなかったのは巡査だ。
「貴様は社会主義だな。」
 初めから僕に脹れっ面をしていた巡査は、いきなり僕に食ってかかった。
「そうだ、それがどうしたんだ。」
 僕も巡査に食ってかかった。
「社会主義か、よし、それじゃ拘引する。一緒に来い。」
「それや面白い。どこへでも行こう。」
 僕は巡査の手をふり払って、その先きに立ってすぐ眼の前の日本堤署へ飛びこんだ。当直の警部補はいきなり巡査に命じて、僕等のあとを追って来た他の二人まで一緒に留置場へ押しこんでしまった。
 これが当時の新聞に「大杉栄等検挙さる」とかいう事々しい見だしで、僕等が酔っぱらって吉原へ繰りこんで、巡査が酔いどれを拘引しようとする邪魔をしたとか、その酔いどれを小脇にかかえて逃げ出したとか、いい加減な嘘っぱちをならべ立てた事件の簡単な事実だ。
 そして翌朝になって、警部が出て来てしきりにゆうべの粗忽を謝まって、「どうぞ黙って帰ってくれ」と朝飯まで御馳走して置きながら、いざ帰ろうとすると、こんどは署長が出て来て、どうしたことか再びまたもとの留置場へ戻されてしまった。
 かくして僕等は、職務執行妨害という名の下に、警察に二晩、警視庁に一晩、東京監獄に五晩、とんだ木賃宿のお客となって、
「どうも相済みません。どうぞこれで御帰りを願います」というお挨拶で帰された。
 元来僕は、ほとんど一滴も飲めない、女郎買いなぞは生れて一度もしたことのない、そして女房と腕押しをしてもいつも負けるくらいの実に品行方正な意気地なしなのだ。
 奥さんも御一緒[#「奥さんも御一緒」はゴシック体]
 それから、これは本年の夏、一週間ばかり大阪の米一揆を見物して帰って来ると、
「ちょっと警察まで。」
 ということで、その足で板橋署へ連れて行かれて、十日ばかりの間「検束」という名義で警察に泊め置かれた。
 しかしそれも、何も僕が大阪で悪いことをしたという訳でもなく、また東京へ帰って何かやるだろうという疑いからでもなく、ただ昔が昔だから暴徒と間違われて巡査や兵隊のサーベルにかかっちゃ可哀相だというお上の御深切からのことであったそうだ。立派な座敷に通されて、三度三度署長が食事の註文をききに来て、そして毎日遊びに来る女をつかまえて、
「どうです、奥さん。こんなところではなはだ恐縮ですが、決して御心配はいりませんから、あなたも御一緒にお泊りなすっちゃ。」
 などと真顔に言っていたくらいだから
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