へ呼ばれたことがあった。その看守長はせいの低い小太りで猫背の、濃い口髯の、そしていつも顔中髯だらけにしてその中から意地の悪そうな細い眼を光らしている男だった。僕等はこの男を「熊」と呼んでいた。
 はいると、いきなり、
「そこへ坐れ。」
 と顎で指さした。見ると、足元にはうすべりが二枚に折って敷かれている。僕は黙って知らん顔をしていた。煉瓦造りの西洋館の中で、椅子テーブルを置いて、しかも向うは靴をはいてその椅子に腰掛けながら、こちらには土下座をしろと言うのだ。僕はほとんどあきれ返った。
「なぜ坐らんか。」
「いやだから坐らない。」
「何がいやだ。」
「立っていたって話ができるじゃないか。」
「理窟は言わんでもいいから坐れ。」
「君も坐るんなら僕も坐ろう。」
 というような押問答の末に、さっきからその濃い眉をびくびくさせていた看守長は、決然として起ちあがった。
「命令だ! 坐れ!」
 僕はこの命令という声が僕の耳をつんざいた時に、その瞬間に、僕のからだ全体が「ハッ」と恐入る何ものかに打たれたことを感じた。そしてそれを感じると同時に、その瞬間の僕自身に対する反抗心がむらむらと起って来た。
「命令が何だ。坐らせるなら坐らせて見ろ。」
 さっきまでの冷笑的の態度が急に挑戦の態度に変った。そしてこの時もやはり、前の典獄室におけると同じように、そのまま自分の室へ帰された。叱られる筈のことには一言も及ばないうちに。
 この命令だという一言に縮みあがるのは、数千年の奴隷生活に馴れた遺伝のせいもあろうが、僕にはやはり大部分は幼年校時代の精神的遺物であろうと思われる。
 僕は元来ごく弱い人間だ。もし強そうに見えることがあれば、それは僕の見え坊から出る強がりからだ。自分の弱味を見せつけられるほど自分の見え坊を傷つけられることはない。傷つけられたとなると黙っちゃいられない。実力があろうとあるまいと、とにかくあるように他人にも自分にも見せたい。強がりたい。時とするとこの見え坊が僕自身の全部であるかのような気もする。
 こんど犯則があれば減食ぐらいでは済まんぞという筈のが、その後三日間と五日間との二度減食処分を受けた。一度は荒畑と運動場で話したのを見つかって二人ともやられた。もう一度のは何をしたのだったか今ちょっと思い出せない。
 荒畑も僕と同じようによく叱られていたが、ある晩あまり月がいいので窓下へ行って眺めていると、
「そんなところで何をぼんやりしている。……何に、月を見てるのだ? 月なんぞ見て何になる? 馬鹿!」
 とやられたと言って、あとでその話をして大笑いをしたことがあった。
 もう半年はいっていたい[#「もう半年はいっていたい」はゴシック体]
 要するに僕等は監獄にはいってこれほどの扱いを受けるのは初めてだった。しかし僕等は、先方の扱い如何にかかわらず、一年なり二年なりの長い刑期を何とかして僕等自身にもっとも有益に送らなければならない。
 僕はその方法について二週間ばかり頭を悩ました。方法と言っても読書と思索の外にはない。要はただその読書と思索の方向をきめることだ。
 元来僕は一犯一語という原則を立てていた。それは一犯ごとに一外国語をやるという意味だ。最初の未決監の時にはエスペラントをやった。次の巣鴨ではイタリア語をやった。二度目の巣鴨ではドイツ語をちっと噛った。こんども未決の時からドイツ語の続きをやっている。で、刑期も長いことだから、これがいい加減ものになったら、次にはロシア語をやって見よう。そして出るまでにはスペイン語もちっと噛って見たい。とまずきめた。今までの経験によると、ほぼ三カ月目に初歩を終えて、六カ月目には字引なしでいい加減本が読める。一語一年ずつとしてもこれだけはやられよう。午前中は語学の時間ときめる。
 こう言うと、僕は大ぶえらい博言学者のように聞えるが、実際またこの予定通りにやり果して大威張りで出て来たのだが、その後すっかり怠けかつこの監獄学校へも行かなくなったので、今ではまるで何もかも片なしになってしまった。
 それから、以前から社会学を自分の専門にしたい希望があったので、それをこの二カ年半にやや本物にしたいときめた。が、それも今までの社会学のではつまらない。自分で一個の社会学のあとを追って行く意気込みでやりたい。それには、まず社会を組織する人間の根本的性質を知るために、生物学の大体に通じたい。次に、人間が人間としての社会生活を営んで来た径路を知るために、人類学ことに比較人類学に進みたい。そして後に、この二つの科学の上に築かれた社会学に到達して見たい。と今考えるとまことにお恥かしい次第だが、ほんの素人考えに考えた。それには、あの本を読みたい、この本を読みたい、と数え立ててそれを読みあげる日数を算えて見ると、どうしても二カ年半
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