ことがなかったのだ。で、この話を聞いた僕には、それが唯一の楽しい期待になっていたのだ。
「それやいいな。早く行って食いたいな。」
 荒畑も、そばにいた二、三人も、嬉しそうに微笑んだ。
 下駄の緒の心造り[#「下駄の緒の心造り」はゴシック体]
 着いて見ると、なるほど建物は新築したばかりでてかてか[#「てかてか」に傍点]光っている。室は四畳半敷くらいの、南向きの、明るい小綺麗な室だ。何よりもまず窓が低くて大きい。東京のちょっとした病院の室よりもよほど気持がいい。
 が、第一にまず役人の利口でないのに驚かされた。着くとすぐ、みんな一列にならべさせられて、受持の看守部長の訓示を受けた。
「こんどはみんな刑期が長いのだから、よく獄則を守って、二年のものは一年、一年のものは半年で出られるように、自分で心掛けるんだ。」
 というような意味のことを繰返し繰返し聞かされた。僕等はあざ笑った。こんなだまし[#「だまし」に傍点]が僕等にきくと思っているんだ。また、よし本当に好意でそう言ってくれたものとしても、僕等に仮出獄なぞといういわゆる恩典があるものと思うのもあまりに間が抜けている。まるで僕等を知らないんだ。それだけならまだいい。この訓示が済んで、一行八人(電車事件の方は一足先きに来た)が別々に隣り合った室へ入れられた時、こんどは受持の看守が、
「つまらんことで大ぶ食ったもんだな。一度はいると大ぶ貰えるという話だが、こんどはみんな幾らずつ貰ったんだ。」
 という情けないお言葉だ。政党か何かの壮士扱いだ。さすがの堺を始めみんなは顔見合せて苦笑するの外はなかった。ただ、ふだんは神経質に爪ばかり噛っているように見えたのが、入獄以来その快活な半面をしきりに発揮し出した荒畑が、「アハハア」と大きな声を出して笑った。看守はけげんな顔をしていた。
 上典獄を始め下看守に至るまでが、ほとんどすべてこの調子なのだからやり切れない。
 それに、第一に期待していた例の鰯が、夕飯には菜っ葉の味噌汁、翌日の朝飯が同じく菜っ葉の味噌汁、昼飯が沢庵二た切と胡麻塩、と来たのだからますます堪らない。
 加うるにこんどは今までの禁錮と違って、懲役と言うのだから、一定の仕事を課せられる。しかもその仕事が、東京監獄ではごく楽で綺麗な経木あみであったのが、南京麻の堅いのをゴシゴシもんで柔らかくして、それで下駄の緒の心をなうのであった。手があれるだけならまだしも下手をやると赤むけになる。埃が出る。かなり骨が折れる。それを昼の間十時間くらいやって、その上にまた夜業を二、三時間やらされる。初めの一日でうんざりしてしまった。
 三度減食を食う[#「三度減食を食う」はゴシック体]
 三日目か四日目のことだ。毎日のこの仕事に疲れ果てて、少しでも仕事の手を休めていると、うとうとと眠ってしまう。坐りながら幾度か眠っては覚め、眠っては覚めしているうちに、とうとう例の胡麻塩の昼飯後の三十分か一時間かの休憩時間に、いつの間にか居眠りのまま横に倒れてしまった。
「こら、起きろ!」
 という声にびっくりして目を覚ますと、僕は自分のそばに畳んである布団の上に半身を横たえて寝ていた。
「横着な奴だ。はいる早々もう真っ昼間から寝たりなんぞしやがって、貴様は監獄の規則なんぞ何とも思ってないんだな。」
 看守は、貴様のような壮士が何だという腹を見せて、威丈高になって怒鳴りつづけた。
 しばらくして典獄室へ呼びつけられた。僕はみちみち、はなはだ意気地のないことだが馴れない仕事に疲れてつい、とありのままの弁解をするつもりで行った。ところが、典獄室にはいって一礼するかしないうちに、
「貴様は社会主義者だな。それで監獄の規則まで無視しようと言うんだろう。減食三日を仰せつける。以後獄則を犯して見ろ、減食ぐらいじゃないぞ。」
 と恐ろしい勢いで怒鳴りつけられた。
「ええ、何でもどうぞ。」
 と僕は、外国語学校の一学友の、海軍中将だとかいう親爺の、有名な気短か屋で怒鳴り屋だというのを思出しながら、(典獄はこの学友の親爺と言ってもいいくらいによく似ていた)そのせりふめいた怒鳴り方の可笑しさを噛み殺して答えた。
「何に!」
 と典獄は椅子の上に上半身をのばして正面を切ったが、こちらが黙って笑顔をしているので、
「もういいから連れて帰れ。」
 と、こんどは僕のうしろに不動の姿勢を取って突っ立っている看守に怒鳴りつけた。僕は幼年学校仕込みの「廻れ右」をわざと角々しくやって、典獄室を出た。これは幼年校時代の叱られる時のいつもの癖であったが、この時は皮肉でも何でもなく、思わずこの古い癖が出たのだった。

 幼年学校時代の癖と言えば、もう一つ、妙な癖をやはりこの監獄で発見した。
 これはその後よほど経ってからのことだが、やはり何か叱られて、看守長室
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