た紙きれを受取ったが、それっきり彼とはまだ一度も会わない。
 二十五年目の出獄[#「二十五年目の出獄」はゴシック体]
 この男と一緒にやはり雑役をしていた、もう六十を越した一老人があった。やはり僕が二度目の満期になる少し前に放免になったのだが、何でも二十五年目とか六年目とかで日の目を見るのだと言っていた。
「電車なんてものはどんなものだか、いくら話に聞いても考えても分りませんや。何しろ電燈だって初めてここで知ったんですからな。」
 ある時彼は夢見るような目つきで電燈を見あげながら言った。
 看守がそばにいて、一緒になって話をする時には、彼はよくいろんなことを話した。しかしそうでない時には、雑役としての用以外には、ほとんど一言もきかない。自分の監房にいる時でもやはりそうだ。看守のすき[#「すき」に傍点]を窺ってはいろんな悪戯やお饒舌をする時にも、彼だけは一人黙ってふり仮名つきの何かの本を読んでいた。話しかけられても返事をしない。雑役としての用をする時にも、よほど意地の悪い看守よりも、もっと一刻者だった。
「おい君、こんなきたない着物じゃしょうがないじゃないか。もっと新しいのを持って来てくれたまえ。」
 僕は一度この老人にその持って来た着物の不足を言った。
「贅沢言うな。」
 老人はこう言い棄てて隣りの室の方へ行った。
「おい、君、君!」
 と僕は少し大きな声で呼び帰そうとした。看守はそれを聞きつけてやって来た。そして一応僕の苦情を聞いて、
「新しいのを一枚持って来てやれ。」
 と老人に言いつけた。老人はぶつくさ言いながらまた取りに行った。
 これはこの老人の一刻者らしいいい例ではないが、とにかくすべてがこの調子だった。他の囚人の苦情なぞはいっさい取りいれない。毎日半枚ずつ配ってくれる落し紙ですら、腹工合が悪いからもう一枚くれと言っても、決して余計にくれたことはない。時には、いいから何とかしてやれなどという看守に、獄則を楯にして食ってかかることすらあったが、この獄則を守る点では、先きにも言ったようにまるで裏表のない、獄則そのものの権化と言ってもいいくらいだった。数年前の規則そのままに、歩く時には手を少しも振らないように、五本の指をぴんとのばして腰にしっかりと押しつけていた。賞標の白い四角な布も三つほど腕につけていた。
 最初殺人で死刑の宣告を受けたのを、終身に減刑され、その後また何かの機会に減刑また減刑されて、ついに放免になったのだそうだ。一刻者は最初からの、しかも正直者というほどの意味であったらしいが、入獄以来その一刻から出た犯罪を後悔するとともに、その一刻をただ獄則厳守のことにのみ集中させて、ますます妙な一刻者になったのらしい。
 びっこの少年[#「びっこの少年」はゴシック体]
 隣りの室には十人ばかり片輪者が同居していた。その中に、七十幾つかの老人と、森の中にでもいればどうしてもチンパンジイとしか思えないような顔つきの若い大男と、尻が妙に出っぱってびっこ[#「びっこ」に傍点]をひいて歩く少年とがいた。チンパンジイは盲というほどでもないが両眼ともよく見えなかったらしい。高い眉の下にひどく窪んだ細い眼をいつもしょぼしょぼさせていた。この男は僕がいる間に一度ちょっと出てまたすぐはいって来た。みんなほんのこそこそ盗棒らしかった。
 この少年はひょうきん者で、一日みんなを笑わせては騒いでいた。誰かがブッと屁を放る。するとこの少年は、「うん、うん、よしよし」なぞと、赤ん坊でもなだめすかすようなことを言う。一日に幾度とちょっとは数え切れないほどみんなはよく屁をひった。そしてそのたんびにこの少年はこんなことを言ってはみんなを笑わしていた。隣りで聞いている僕も時々吹き出した。
 仕事がいやになるとみんなはよく便所へはいって一と休みした。
「いつまで便所にはいってるんだ。」
 時々は看守も二、三度廻って来てまだ同じ人間が便所にしゃがんでいるので小言を言う。すると少年は「どうも難産で」と言いながら「うん、うん」と唸って見せる。みんなはどっと笑う。看守も仕方なしに「いい加減にして出ろ」と言い棄てて行ってしまう。
 この隣りの笑い声で、どれほど僕は、長い日の無聊を慰められたか知れない。
 獄中からの手紙[#「獄中からの手紙」はゴシック体]
 僕の生活は、毎朝起きるとまずこの広い室のふき掃除をして、あとは一日机に向って読み書き考えてさえいればいいのだった。
 本は辞書の外五、六冊ずつ手許に置くことができた。そしてそれを毎週一回新しいのと代えて貰うことができた。ペンとインクとノートとは特別に差入れを許された。
 その頃の生活を当時の気持そのままに見るために、獄中から出した手紙の二、三を次に採録して見る。いずれも最初の時のものだ。
「暑くなったね。それでも
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