ニエント・シンプル・ライフ!」
 と僕は独りごとを言いながら、室の左側の棚の下に横たえてある手拭掛けの棒に手拭をかけて、さっき着かえさせられて来た青い着物の青い紐の帯をしめ直して、床の中にもぐりこもうとした。
「がみんなはどこにいるんだろう。」
 僕は四、五日前の市民大会当日に拘引された十人ばかりの同志のことを思った。そして入口の戸の上の方についている「のぞき穴」からそっと廊下を見た。さっきもそう思いながら左右をきょろきょろ見て来た廊下だ。二間ばかり隔てた向う側にあの恐ろしい音を立てる閂様の白く磨ぎ澄まされた大きな鉄の錠を鼻にして、その上の「のぞき穴」を目にして、そして下の方の五寸四方ばかりの「食器口」の窓を口にした巨人の顔のような戸が、幾つも幾つも並んで見える。その目からは室の中からの光が薄暗い廊下にもれて、その曲りくねった鼻柱はきらきらと白光りしている。しかし、厚い三寸板の戸の内側を広く外側を細く削ったこの「のぞき穴」は、そとからうちを見るには便宜だろうが、うちからそとを窺くにはまずかったので、こんどは蹲がんで、そっと「食器口」の戸を爪で開けて見た。例の巨人の顔は前よりも多く、この建物の端から端までのがみんな見えた。しかしその二十幾つかの顔のどの目からも予期していた本当の人間の目は出て来なかった。そしてみんなこっちを睨んでいるように見える巨人の顔が少々薄気味悪くなり出した。
「もうみんな寝たんだろう。僕も寝よう。みんなのことはまたあしたのことだ。」
 僕はそっとまた爪で戸を閉めて、急いで寝床の中へもぐりこんだ。綿入一枚、襦袢一枚の寒さに慄えてもいたのだ。
 すると、室の右側の壁板に、
「コツ、コツ。コツ、コツ。コツ、コツ。」
 と音がする。僕は飛びあがった。そしてやはり同じように、コツコツ、コツコツ、コツコツと握拳で板を叩いた、ロシアの同志が、獄中で、このノックで話をすることはかねて本で読んでいた。僕はきっと誰か同志が隣りの室にいて、僕に話しかけるのだと思った。
「あなたは大杉さんでしょう。」
 しかしその声は、聞き覚えのない、子供らしい声だった。
「え、そうです。君は?」
 僕もその声を真似た低い声で問い返した。知らない声の男だ。それだのに今はいって来たばかりの僕の名を知っている。僕はそれが不思議でならなかった。
「私は何でもないんですがね。ただお隣りから言いつかって来たんですよ。みんなが、あなたの来るのを毎日待っていたんですって、そいで、今新入りがあったもんですから、きっとあなただろうというんで、ちょっと聞いてくれって頼まれたんですよ。」
「君のお隣りの人って誰?」
 僕は事のますます意外なのに驚いた。
「○○さんという焼打事件の人なんですがね。その人と山口さんが向い同士で、毎日お湯や運動で一緒になるもんですから、あなたのことを山口さんに頼まれていたんです。」
「その山口とはちょっと話ができないかね。」
「え、少し待って下さい。お隣りへ話して見ますから。今ちょうど看守が休憩で出て行ったところなんですから。」
 しばらくすると、食器口を開けて見ろと言うので、急いで開けて見ると、向う側のちょうど前から三つ目の食器口に眼鏡をかけた山口の顔が半分見える。
「やあ、来たな。堺さんはどうした? 無事か?」
「無事だ。きのうちょっと警視庁へ呼ばれたが、何でもなかったようだ。」
「それや、よかった。ほかには、君のほかに誰か来たか。」
「いや、僕だけだ。」
 と僕は答えて、ひょいと顔を引っこめた山口を「おい、おい」とまた呼び出した。
「ほかのものはみんなどこにいるんだ、西川(光二郎)は?」
「シッ、シッ。」
 山口はちょっと顔を出して、こう警戒しながら、また顔を引っこましてしまった。コトンコトンと遠くの方から靴音がした。僕は急いでまた寝床の中へもぐりこんだ。靴音はつい枕許まで近く聞えて来たが、まただんだん遠くのもと来た方へ消えて行った。
「コツコツ、コツコツ、コツコツ。」
 とまた隣りで壁を叩く音がした。そしてこの隣りの男を仲介にして、その隣りの○○という男と、しばらく話しした。西川は他の二、三のものと二階に、そしてここにも僕と同じ側にもう一人いることが分った。
 僕はもう面白くて堪らなかった。きのうの夕方拘引されてから、初めての入獄をただ好奇心一ぱいにこんどはどんなところでどんな目に遭うのだろうとそれを楽しみに、警察から警視庁、警視庁から検事局、検事局から監獄と、一歩一歩引かれるままに引かれて来たのだが、これで十分に満足させられて、落ちつく先のきまった安易さや、仲間のものとすぐ目と鼻の間に接近している心強さなどで、一枚の布団に柏餅になって寝る窮屈さや寒さも忘れて、一、二度寝返りをしたかと思ううちにすぐに眠ってしまった。
 野口男三郎君
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