一つ一つ厳重に処罰することになったから、もう二度とこんないい儲けはあるまい。
それで二十七の年の暮、ちょうど幸徳等の逆徒どもが死刑になる一カ月ばかり前にしばらく目でまた日の目を見て、それ以来今日までまる七年の間ずっと謹慎している。
だから、僕の獄中生活というのは、二十二の春から二十七の暮までの、ちょいちょい間を置いた六年間のことだ。そして僕が分別盛りの三十四の今日まだ、危険人物なぞという物騒な名を歌われているのは、二十二の春から二十四の夏までの、血気に逸った若気のあやまちからのことだ。
とんだ木賃宿[#「とんだ木賃宿」はゴシック体]
もっとも、その後一度ふとしたことからちょっと東京監獄へ行ったことがある。しかしそれは決して血気の逸りでもまた若気のあやまちでもない。現に御役人ですら「どうも相済みません」と言って謝まって帰してくれたほどだ。それは本年のことで、事情はざっとこうだ。
三月一日の晩、上野のある仲間の家で同志の小集りがあった。その帰りに、もう遅くなってとても亀戸までの電車はなし、和田の古巣の涙橋の木賃宿にでも泊って見ようかということになって、僕の家に同居していた和田、久板の二人と一緒に、三輪から日本堤をてくって行った。この和田も久板も今は初陣の新聞紙法違犯で東京監獄にはいっているが、本年の二科会に出た林倭衛の「H氏の肖像」というのはこの久板の肖像だ。
吉原の大門前を通りかかると、大勢人だかりがしてわいわい騒いでいる。一人の労働者風の男が酔っぱらって過ってある酒場の窓ガラスを毀したというので、土地の地廻りどもと巡査がその男を捕えて弁償しろの拘引するのと責めつけているのだった。
その男はみすぼらしい風態をして、よろよろよろけながらしきりに謝まっていた。僕はそれを見かねて仲へはいった。そしてその男を五、六歩わきへ連れて行って、事情を聞いてそこに集まっているみんなに言った。
「この男は今一文も持っていない。弁償は僕がする。それで済む筈だ。一体、何か事あるごとに一々そこへ巡査を呼んで来たりするのはよくない。何でもお上にはなるべく御厄介をかけないことだ。大がいのことは、こうして、そこに居合した人間だけで片はつくんだ。」
酒場の男どももそれで承知した。地廻りどもも承知した。見物の弥次馬どもも承知した。しかしただ一人承知のできなかったのは巡査だ。
「貴様は社会
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