それも茶碗を食器箱の蓋に乗せてよそって貰うのだが、その蓋の中にこぼれた汁も、蓋を傾けてすすってしまう。特に残汁《ざんじる》と言って、一と廻り廻った残りをまた順番によそって歩くことがある。その番の来るのがどれほど待ち遠しいか知れない。
小説なぞを読んでいて、何か御馳走の話が出かかって来れば、急いでページをはぐって、その話を飛ばしてしまう。とても読むには堪えないのだ。そうかと思うと、本を読んでいる時でも、何か考えている時にでも、またはぼんやりしている時でも、何でもないことがふと食物と連想される。
折々何か食う夢を見る。堺もよくその夢を見たそうだが、堺のはいつも山海の珍味といったような御馳走が現れて、いざ箸をとろうとすると何かの故障で食えなくなるのだそうだ。堺はひどくそれを残念がっていた。しかるに僕のは、しるこ屋の前を通る、いろんな色の餅菓子やあんころ餅などが店にならべてある、堪らなくなって飛びこむ、片っ端から平らげて行く、満腹どころかのど[#「のど」に傍点]にまでもつめこんでうんうん苦しがる、というようなすこぶる下等な夢だ。そして妙なことには、苦しがって散々もがいたあげく、ふと眼をさますと腹工合が変だ。急いで便所へ行くと一瀉千里の勢いで跳ね飛ばす。そうでなくても翌朝起きてからきっと下痢をする。まるで嘘のような話だ。
しからば色欲の方はどうかと言うに、これまたすこぶる妙だ。先きの東京監獄や巣鴨監獄では時々妙な気も起きたが、ここへ来てからまるでそんなことがない。
僕は子供の時には、性欲を絶った仙人とか高僧とかいうものは非常に偉いものと思っていたが、やや長じてからは、そんな人間があるとすれば老耄の廃人くらいに考えていた。しかしそれはどちらも誤っていた。僕のような夢にまで鱈腹食って覚めてから下痢するというほどの浅ましい凡夫でも、時と場合とによれば、境遇次第で、何の苦心も修養も煩悶もなく、ただちに聖人君子となれるのだ。
ある夜などは、自分が不能者になったのかと思って少々心配し出して、わざといろんな場面を回想もしくは想像して見た。が、ついにその回想や想像が一つとして生きて来ない。僕はほとんど絶望した。
危く大逆事件に引込まれようとする[#「危く大逆事件に引込まれようとする」はゴシック体]
一カ年の刑期のものはとうに出た。一カ年半のものも出た。二カ年の堺と山川ももう残り
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