俊寛[#「鬼界ケ島の俊寛」はゴシック体]
出て一カ月半ばかりして、こんどは堺や山川やその他三人の仲間と一緒に、例の屋上演説事件でまた入れられた。既決になると、その他三人というのが東京監獄に残されて、堺と山川と僕とが巣鴨へ送られた。
「やあ、また来たな。」
と看守や獄友諸君は歓迎してくれる。
「またやられたよ。しかしこんどは、まだ碌に監獄の気の抜けないうちに来たのだから、万事に馴れていて好都合だ。」
僕は当時われわれの機関であった『日本平民新聞』の編集者で、その後幸徳と一緒に死刑となった森近運平に宛てて、こんな冒頭の手紙を書いて送った。
山口は何かの病気で病監にはいっていた。山川はたしかほかの建物へやられたように思う。石川、僕、堺という順で、相ならんでいた。
堺はもう格子につかまって「ちょいとお髯の旦那」をやる当年の勇気も無くなっていたが、石川と僕とは盛んに隣り合っていたずらをした。運動の時にそとで釘を拾って来て、二人の室の間の壁に穴をあけた。本やノートに飽きるとその穴から呼び出しをかける。石川が話している間は僕は耳をあてている。僕が話をする間は石川が耳をあてる。ところがこれがなかなかうまく行かない。時々口をあて合ったり耳をあて合ったりすることがある。どうしたのかと思って、耳をはずしてのぞいて見ると、向うでも耳をあてて待っている。ちょっと議論めいたことになると、お互いに「こんどは俺がしゃべるんだからお前は聞け」と言い合って、小さな穴を通して唾を飛ばし合う。時とすると「しばらくそこで見ておれ」と言って、室の真ん中へ行って踊って見せたりする。
こんなことをしてふざけながらも、石川は二千枚近い『西洋社会運動史』を書いていた。これは後に出版されて発売禁止になった。堺と僕とは当時堺の編集で『平民科学』という題で出していた叢書を翻訳していた。山川もやはりそれをやっていた。
そしてちょうどこの翻訳が一冊ずつできあがった頃に堺と山川と僕とは満期になった。
「可哀想だがちょうど鬼界ケ島の俊寛という格好だな。しかしもう少しだ。辛抱しろ。」
堺と僕とは石川にこう言いながら、
「おい、俊寛、左様なら。」
とからかってその建物を出た。
千葉の巻
うんと鰯が食えるぜ[#「うんと鰯が食えるぜ」はゴシック体]
が、また半年も経つか経たぬ間に、こんどは例の赤旗事件で官吏
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