た独りでうなずいた。
「違いますよ、旦那、まったく初めてなんですよ。」
 その男はやはりしきりともみ手をしながら腰をかがめていた。
「なあに、白っぱくれても駄目だ。それからその間に一度巣鴨にいたことがあるな。」
 老看守はその男の言うことなぞは碌に聞かずに、自分の言うだけのことを続けて行く。その男も、もうもみ手はよして、図星を指されたかのように黙っていた。
「それからもう一度どこかへはいったな。」
「へえ。」
 とうとうその男は恐れ入ってしまった。
「どこだ?」
「千葉でございます。」
 窃盗か何かでつかまって、警察、警視庁、検事局と、いずれも初犯で通して来たその男は、とうとうこれで前科四犯ときまってしまった。そして、
「実際あの旦那にかかっちゃ、とても遣りきれませんよ。」
 と、さっきから不思議そうにこの問答を聞いていた僕にささやいて言った。
 僕の前科[#「僕の前科」はゴシック体]
 本年の三月に僕がちょっと東京監獄へはいった時にも、やはりこの老看守は、その十二年前のやはり三月に僕が初めて見た時と同じように、まだこの前科割りを続けていた。
「やあ、また来たな、こんどは何だ、大分しばらく目だな。」
 老看守はそのますます黒く、ますます醜くなった、しかし相変らず人の好さそうな顔をにこにこさせていた。
 僕は今、この老看守に向った時の懐しいしかし恐れ入った心持で、僕自身の前科割りをする。
 と言っても、実は本当にはよく覚えていないんだ、つい三、四カ月前にも、米騒動や新聞のことでたびたび検事局へ呼び出されていろいろ糺問されたが、その時にもやはり自分の前科のことは満足に返事ができなかった。そしてとうとう、
「あなたの方の調べには間違いなく詳しく載ってるんでしょうから。」
 というようなことで、検事にそれを読みあげて貰って、
「まあ、そんなものなんでしょう。」
 と曖昧に済ましてしまった、ところが、あとでよく考えて見ると、検事の調べにも少々間違いがあったようだ。何でも前科が一つ減っていたように思う。
 当時の新聞雑誌でも調べて見ればすぐに判然するのだろうが、それも面倒だから、今はただ記憶のままに罪名と刑期とだけを掲げて置く。何年何月の幾日にはいって何年何月の幾日に出たのかは、一つも覚えていない。監獄での自分の名の「襟番号」ですらも、一番最初の九七七というたった一つしか覚えて
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