にわ》へ一人の農婦が馳《か》けつけた。彼女はこの朝早く、街に務《つと》めている息子から危篤の電報を受けとった。それから露に湿《しめ》った三里の山路《やまみち》を馳け続けた。
「馬車はまだかのう?」
彼女は馭者部屋を覗《のぞ》いて呼んだが返事がない。
「馬車はまだかのう?」
歪《ゆが》んだ畳の上には湯飲みが一つ転っていて、中から酒色の番茶《ばんちゃ》がひとり静《しずか》に流れていた。農婦はうろうろと場庭を廻ると、饅頭屋の横からまた呼んだ。
「馬車はまだかの?」
「先刻出ましたぞ。」
答えたのはその家の主婦である。
「出たかのう。馬車はもう出ましたかのう。いつ出ましたな。もうちと早《は》よ来ると良かったのじゃが、もう出ぬじゃろか?」
農婦は性急な泣き声でそういう中《うち》に、早や泣き出した。が、涙も拭《ふ》かず、往還《おうかん》の中央に突き立っていてから、街の方へすたすたと歩き始めた。
「二番が出るぞ。」
猫背の馭者は将棋盤を見詰めたまま農婦にいった。農婦は歩みを停めると、くるりと向き返ってその淡い眉毛《まゆげ》を吊り上げた。
「出るかの。直ぐ出るかの。悴《せがれ》が死にかけてお
前へ
次へ
全10ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング