しんし》は宿場へ着いた。彼は四十三になる。四十三年貧困と戦い続けた効《かい》あって、昨夜|漸《ようや》く春蚕《はるご》の仲買《なかがい》で八百円を手に入れた。今彼の胸は未来の画策のために詰っている。けれども、昨夜|銭湯《せんとう》へ行ったとき、八百円の札束を鞄《かばん》に入れて、洗い場まで持って這入って笑われた記憶については忘れていた。
農婦は場庭の床几《しょうぎ》から立ち上ると、彼の傍《そば》へよって来た。
「馬車はいつ出るのでござんしょうな。悴が死にかかっていますので、早《は》よ街へ行かんと死に目に逢《あ》えまい思いましてな。」
「そりゃいかん。」
「もう出るのでござんしょうな、もう出るって、さっきいわしゃったがの。」
「さアて、何しておるやらな。」
若者と娘は場庭の中へ入ってきた。農婦はまた二人の傍へ近寄った。
「馬車に乗りなさるのかな。馬車は出ませんぞな。」
「出ませんか?」と若者は訊《き》き返《かえ》した。
「出ませんの?」と娘はいった。
「もう二時間も待っていますのやが、出ませんぞな。街まで三時間かかりますやろ。もう何時になっていますかな。街へ着くと正午《ひる》になりますやろか。」
「そりゃ正午や。」と田舎紳士は横からいった。農婦はくるりと彼の方をまた向いて、
「正午になりますかいな。それまでにゃ死にますやろな。正午になりますかいな。」
という中《うち》にまた泣き出した。が、直ぐ饅頭屋の店頭へ馳けて行った。
「まだかのう。馬車はまだなかなか出ぬじゃろか?」
猫背の馭者は将棋盤を枕にして仰向《あおむ》きになったまま、簀《す》の子《こ》を洗っている饅頭屋の主婦の方へ頭を向けた。
「饅頭はまだ蒸《む》さらんかいのう?」
七
馬車は何時《いつ》になったら出るのであろう。宿場に集った人々の汗は乾いた。しかし、馬車は何時になったら出るのであろう。これは誰も知らない。だが、もし知り得ることの出来るものがあったとすれば、それは饅頭屋の竈《かまど》の中で、漸く脹《ふく》れ始めた饅頭であった。何《な》ぜかといえば、この宿場の猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手《しょて》をつけるということが、それほどの潔癖《けっぺき》から長い年月の間、独身で暮さねばならなかったという彼のその日その日の、最高の慰めとなっていたのであったから
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