立ちよった。ここは梶の滞在中出入した料亭の中では、もっとも大きな料亭だった。おそらくヨーロッパの中でも屈指のものかと思える広広とした壮麗さで、朱色の大天蓋《だいてんがい》を拡げた庭園では薔薇《ばら》の周囲を巻き包み、朝から人人の踊る姿がもう見られた。ヨハンの云うには、この街の官庁はどこも一斉に夜の九時で終ってしまい、それから後はこうして皆は遊ぶのだとの事だった。二人は食事をすますと、温泉場、古跡、発掘場などと、この日の予定は急がしく一日中自動車を走らせつづけた。それに明朝早くヴェニスまで梶の飛ぶ飛行機の約束もしなければならなかったが、郊外のある景勝地帯の茶店では、二人は一番時間を長く費した。そこは眼下に拡がる平原の起伏を一望の中に見渡せる丘上の位置で、梶は軽井沢のグリーンホテルを思い出し、自然に腰もここでは落ちつくのだった。さすがのヨハンも連日の疲労を覚えたと見え、容易に動かぬ梶に応じて彼もまたステッキに身をよせかけ、ともに動こうとしなかった。
どちらもときどき黙りがちになった。緑樹の中を流れるダニューブ河や、杜《もり》や牧場の姿は、照りかげる光の中で麗しく静だった。すると、そのとき、黙っていたヨハンはステッキの曲った把手《とって》から顔を上げて、
「しらゆきはどうしていますか」
と小声で訊ねた。
「しらゆき」梶は何ごとか意味が分らず訊ね返した。
「陛下のお馬」
「ああ」と梶は思わず発して身を伸ばした。純白な姿が何か身を浄《きよ》めるように一瞬彼を撃って来た。しかし、ここでもまた、この罌粟の花に取り包まれた遠いはるかな異国の果ての、ヨハンの口から、突然そのような姿の浮ぶ言葉が出ようとは――ただもう今は不思議な感じだった。梶は大きなヨハンの顔を瞶《みつ》めながら、
「あなたはどうして御存じです」と訊ねた。
「あのお馬は、わたくしがここの牧場でお買いしてさし上げました」
「あなたが」
梶は再びおどろいた。敬語の調子で、「お買いしてさし上げた」ことが、通訳の労をお取り申したという意であることはすぐ察せられたが、しかし、白雪がハンガリヤの産だということは今まで彼も気附かなかったことだった。彼はまたもや自分の顕した手落ちを不意に感じ、今はひそかにヨハンの舌を両手で封じたくもなる複雑な気持ちに襲われた。
「白雪はここでしたか。それは非常な失礼をしました」
すっきりと白く
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