がたかった。
 その日は王宮や古代建築を見て廻ってから、梶は不足になった金を補いたく銀行へより路《みち》した。そして、この地で入用なだけをヨハンの云うまま預金の中から出して貰うとき、不覚なことにも、日本を出発に際して銀行員の記入した紀元年数に、一年の間違いあることを指摘された。預金帳を見ると、なるほど明らかに誤記してあった。ヨハンは何事かこの地の銀行員と暫く話していてから梶に対《むか》い、
「この期日の間違いには、銀行として応じるわけには不可《いか》ないそうでありますが、あなたは日本の方ですから、特にこの度《た》びは、規則を破ってお払いすると、云いました」
 とそう云って、所用のハンガリヤ紙幣を梶にわたしてくれた。梶はふかくその銀行員の好意に感謝し銀行を出た。しかし、彼は歩きながらも、日本の銀行員の落度と、それに気附かずハンガリヤで指摘された自分の二つの落度が、忽《たちま》ち諷刺の爪《つめ》をむき立てた獅子に追われるようで暫く不愉快になるのだった。
「みなのものは、この獅子には舌がないと云って、笑いました。そうしますと、その彫刻家は自殺しました」
 自分がその獅子か彫刻家か、しかし、どちらにしても、実に梶には恐るべき童話になるのだった。特に自分の国に好意をよせ、出すべき舌を隠していてくれる場所であるだけになお彼にはこの罌粟《けし》の中の都会が恐るべきものに見えて来た。
 その夜、ヨハンは食事のとき、また昨夕とは違った料亭へ梶をつれて行って、そして云った。
「この家の料理はこの国で一等です。ハンガリヤ料理です」
 三日目に、ようやく彼はこの国の最上の料理を梶に食べさせてくれるわけだった。ここでも島の中の料亭と同じく庭の中の野天の食事だったが、別れた客席のそれぞれが、花や蕾《つぼみ》をつけた自然の蔓薔薇《つるばら》の垣根《かきね》からなる部屋で、隣席が葉に遮《さえぎ》られて見えず、どの客も中央の楽団から演奏されて来る音楽だけを愉《たの》しむ風になっていた。
「いかがですか、ここの料理は?」
 ヨハンは梶からここだけ答えを聞きたいらしかった。料理はダニューブの魚と野菜に独特な美味なものがあったが、味はどれも味噌《みそ》に似たマヨネーズで統一をつけてあるためか、梶には少し単調にすぎて塩辛《しおから》かった。原野の強烈な色彩の中で育った調味法は、塩を利《き》かす工夫に向けられ
前へ 次へ
全17ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング