て来たそのとき、突然、
「あッ、これや、もうパリだ。」
 と誰かが時間表と時計を見比べて驚いた。
「こんなパリがあるものか。田舎じゃないか。」
「いやたしかにそうだ。」
 しぼしぼ村に雨が降って来る。皆の者は饒舌りすぎて、時間を見るのも忘れていたので時計をそれぞれ取り出すと、たしかに誰の時計も時間はパリ著のころあいだった。それじゃもう荷物をそろそろ降ろしておこうと云うので棚から一つずつ降ろし出し、まだ半分も降ろさぬ間に汽車が停車場に停ってしまった。
「ほんとにこれがパリかなア。」
 と一人が汚い淋しい駅をきょろきょろ眺め廻して云った。
「リヨンと書いてあるにはあるな。」
 とまだ半信半疑の態である。とにかく、一同はコンパートメントからプラットの方へ降りていくと、どの車からもどやどや外人が降りて来た。皆の疑いも無くなったというものの、実感の迫らぬ夢を見ているような表情がありあり一同の顔に流れていた。マルセーユを発つとき、案内人から一行の一先ず落ちつく宿へ電報を打って貰っておいたので、誰か迎いの者が見えるであろうと荷物の傍に皆は並んで立っていたが、さて誰が宿の者だか分らなかった。
 間もなく汽車から降りた外人たちは、それぞれプラットから消えてしまい汽車のどの室も空虚になったが、しかし、一行だけは塊ったままいつまでもしょんぼりとして動かなかった。
「どうするんかね。こんなことしていて。」と久慈は云った。
「迎いに来るというから、待っているんだよ。」と医者が答えた。
「しかし、迎いに来るかどうか、返事が来てないんだから、分らないじゃないか。日本じゃないよ。ここはパリだよ。」
 とまた他の一人が云った。
 なるほどここは日本じゃないと、はッと眼が醒めたようにまた一同の顔色が変ったが、しかし、宿の在所がどこだかそれが誰にも分らなかった。そうかと云って、このままいつまでもプラットに突っ立っているわけにもいかなかった。そこで、赤帽に荷物だけ持たせて先ず待合室の方へ出ていった。しかし、待合室でもまた一同は誰がどこから来るのか分らぬままに、雲を掴むような気持でぼんやり待つのであった。気附かぬ間に夜になっているばかりでない。耳が聾者のようにびいんと鳴って聞えなくなっているうえに空腹が迫って来た。
「いったい、その宿屋は外国人の宿屋かね。日本人の宿屋かね。」と久慈が訊ねた。
「日本人のぼたんやという宿屋が満員だったから、外国人の宿屋にしたとか云っていたようだ。」と機械技師が云った。
「じゃ、明日まで待ったって来るものか、第一来たってお客さんが僕らかどうだか、分りゃしないじゃないか。」
 と矢代は云った。それもそうだと云うので、それではもうこちらから自動車の運転手に話をして、一度満員の日本宿へ行ってみてから、それから外人の宿屋へ廻ろうという相談がようやく決ると、初めて自動車を呼びつけた。
 一行は暗い汚い街街をごとごと自動車に揺られていった。パリだというのにどこまで行っても一行の前にはパリらしいものは現れて来なかった。そのうちに隅田川を小さくしたような河を渡ったとき、
「この河、何というの。」と久慈は運転手に訊ねてみた。
「セーヌ。」
 と一言運転手は答えただけだった。
 じゃ、これがパリの真中だと一同は二の句も出ない有様だった。


 まだ日数も立っていないのに、パリへ著いたその夜のことを思うと、矢代はすでに遠いむかしの日のことのように思われた。夕暮の六時に駅へ著き、それからホテル・マス・ネへ著いたのは夜の十一時近かった。今なら僅か三十分で来られる所を自動車で廻いまいして四五時間もかかっていたのである。矢代は一人モンパルナスの今のホテルをとってからは、それぞれ各国へ散ってしまった船中の友だちからの便りもなく、ただパリに残った久慈と会うだけだった。著いたときは夜のためよく見えなく薄暗がりのままパリを予想に脱れた田舎だと思ったのも、夜があけて次の日になって見ると、ここは大都会と云うだけではなく、全く聞いたことも見たこともない古古とした数百年も前の仏閣のようなものだった。新しい野菜と水ばかりのような日本から来た矢代は、当座の間はからからに乾いたこの黒い石の街に、馴染むことが出来なかった。蛙は濡れた皮膚から体内の瓦斯を発散させて呼吸の調節を計るように、湿気の強い地帯に住んで来た日本人の矢代の皮膚も、パリの乾ききった空気にあうと、毛孔の塞がった思いで感覚が日に日に衰え風邪をひきつづけた。眼の醒めるばかりの彫刻や絵や建物を見て歩いても、人の騒ぐほどの美しさに見えず憂鬱に沈み込んだ。眼の前に出された美味な御馳走に咽喉が鳴っても、一口二口食べるともう吐き気をもよおして来てコーヒーと水ばかりを飲んだ。少し街を歩くと堪らなく水が見たくなってセーヌ河の岸の方へ自然に足が動いていくのだった。
「どうも俺の感覚はこりゃ蛙に似てるぞ。」
 と矢代は思って苦笑した。歩く度びに靴の踵から頭へびいんと響く痛さにいつも泣き顔を漂わせ、椅子にかけると何より矢代は靴を脱いだ。
「東京の友人たち、今ごろは定めし笑っとるだろうな。」
 とこう思うと、ヨーロッパ主義に邁進している誰も彼もの友人の顔が腹立たしくさえなって来た。
 彼は久慈ともよく会ったが、初めは話すことが何もなく黙っていた。ときどき久慈が、
「いいね、パリは。」
 とうっとりした顔で云うことがあったが、それにも矢代はそのままに頷きかねいらいらとした。
「東京とパリのこの深い断層が眼に見えぬのか。この断層を伝ってそのまま一度でも下へ降りて見ろ。向うの岸へいつ出られるか一度でも考えたか。」
 とこう肚の中で矢代は云う。しかし、見渡したところ、足場の一つもないこの大断層にどうして人人が橋をかけるかと思うと、他人ごとではなく自分の問題となって響き返って来るのである。それもやむなくいつの間にかそこを飛び越して、先ずパリに自分がいるのを知り、鼻の頭の乾いた犬のような自分の状態を見るにつけ、先ず考えることより何より今は運動だと気がついて、矢代は終日あてどもなく街街を歩き廻るのだった。ここは全く矢代には乾燥した無人の高い山岳地帯を登るのと同じだった。それもふとこの山は人がみな造ったのだと思ったその瞬間、がらがらッと念いは頂上から真逆さまに下まで転がり落ちた。一日に一度はこうしてどこかへ落ちつづけているうちに、だんだん転がり落ちているのは自分だけじゃないと思い始めて来るのだった。見渡したところ、どの外人の旅行者たちも辷り転がっているものばかりか、多くのものは尻もちついたまま動けぬものばかりに見えて来た。
「ほう、これは面白いぞ。」
 こんなに思い始めたころは、矢代も転がり辷っている自分の方がまだ高きに登っているようで次第に元気も増して来た。
 矢代の部屋は四階にある光線のあまり射し込まない十畳ばかりの部屋で、電話もあり隣りにバスもあった。久慈はよくここへ来たが、彼はあまり元気を失わぬので、著いた夜からもうホテルにいなかった。彼を思うと元気を無くさぬ何か理由を見つけたのにちがいないと矢代は思った。
「君、あの著いた夜はどこへ行ったんだ。僕らは随分探したんだよ。」
 とあるとき久慈に訊ねたとき、
「友人に電話をかけたらすぐやって来てね、モンパルナスへつれて来られたんだよ。何んでもこの近くだったな。語学教師を世話してくれと頼んでおいたもんだから、すぐ紹介してくれたのさ。」
 と久慈は事もなげに答えて笑ったことがあった。若い女の語学教師のアンリエットが久慈の所へ出入するのを矢代の見るようになったのは、それから間もなくのことだった。すべて矢代とは違って暢気で快活な久慈のことであったから、アンリエットに好意を持たれている久慈をひと眼で矢代は見抜くことが出来た。
「君はいつも元気がいいが、君の元気のいいのは油断がならぬぞ。今にがたがたッと来るから用心したまえ。僕はもう屋台骨が潰れてしまったからな。立ち上るのはこれからだ。」
 と矢代はある日腕を撫で撫で久慈にからかった。
「馬鹿いえ。がらがらッと来たのは僕の方が早いや。」
 二人は思わず笑い出したというものの、矢代は、これでいきなり外人の婦人に飛びついて、久慈のように電柱の蛙といった恰好で下からパリを見上げているものと、何んの飛びつく足場もなく喘ぎ悩みつつふらふらしている自分とでは、見るもの聞くものの感じの差の開きはよほど多いにちがいないと思った。それにしても、またとない東洋と西洋とのこの大きな違いを知る機会に、ただひと飛びにそこを飛び越してうろつく暇もないとは、久慈も勿体ない罪を犯したものだと、今さら恨めしく憤おろしく矢代は感じるのだった。
 冬はまだ全く去りかねたが、そのうち食事もようやく進むようになったある日、矢代と久慈とアンリエットと三人で、オートイユ競馬場にいったことがあった。この日は空もよく晴れていて、栗の林に囲まれた広い馬場の芝生の中で走る馬の姿は、それまで麻痺していた矢代の感覚を擦り落してくれた最初の生き物の美しさだった。日本でも見馴れた洋種の馬とここの馬の共通した栗毛の光った美しさは、捩子《ねじ》の利かない瓦斯にぼッと火の点くように、あたりの景色の美しさまで急に頭に手繰りよって来るのだった。競馬の終りの夕刻のころになって、急に春寒の野に霙が降って来たが、最後の障害物を飛び越した馬は騎手を振り落し、すんなりとした裸体で芽の噴きかかった栗の林の中を疾走してゆくその優美さ――矢代は霙に降り込められつつも立ち去ることが出来なかったその日の夕暮の感動を今も忘れない。
 この日あたりから、矢代はパリの静かな動かぬ美しさが少しずつ頭に沁み入って来たといって良い。彼は一人セーヌ河の一銭蒸気に乗って河を下って見た。またバンセンヌの森へも行き、サンジェルマンの城にも出かけた。モンモランシイやフォンテンブロウの森などとパリの郊外遠くまで出かけてもいった。一度パリからこのように外へ出かけ、そうしてパリへ戻って来る度びに、この古い仏閣のような街の隅隅から今までかすかに光りをあげていたものが次第に光度を増して来るのだった。
 こうして、矢代は今までぐらぐらと煮え返っていたような頭の中の動きが、街の形に応じて静まるのもまた感じた。さまざまな疑問は疑問として彼は解決を急ごうとはしなくなって来た。急いだところで分らぬものは分らぬのだった。彼の信じることの出来るものは、先ず今は自分の中の日本人よりないと思ったからである。しかし、もしこんなことを、うっかりと日本人に向って云えば、ここにいる日本人たちはどんなに怒るかとその嘲笑のさままでが眼に見えたが、眼に見えようとどうしようと、日本と外国の違いの甚だしさははっきりとこの眼で見たのだ。誰から何を云われようとも自分のことは失わぬぞと矢代は肚を決めてかかるのだった。
 こんな日のある午後、矢代は久慈と歩いているとき、千鶴子がいよいよロンドンから来ると告げられたのである。久慈と矢代は今までとて船中の客の話をどちらからもよくしかけて懐しがったが、千鶴子の話だけはどういうものかあまり触れ合わないように心掛けるのだった。沖や医者や真紀子などから来る便りは明らさまに話す久慈だのに、千鶴子のことだけ話さぬ久慈の気持ちを矢代は想像すると、アンリエットとの間にもうこれで何事か進行しているものがあるのではなかろうかと思ったりした。
「千鶴子さんが来たら、宿をどこにしたものだろう。」
 ロンドンから千鶴子がいよいよ来るというときに、こういう心配を久慈が矢代にもらすのも、勿論そこにアンリエットの影のあるのを矢代は感じた。彼はいつもに似合わず沈み込んでいる久慈を見て云ってみた。
「君が千鶴子さんの世話をするのが困るなら、僕がしたってかまわないよ。」
「そうか、迷惑じゃなかったら君に頼みたいね。僕は千鶴子さんと別にどうと云ったわけじゃないんだが、船の中であんなに親切にしておいて、今になってがらりと手を変えるようじゃ、あんまり失礼だからね。」
 久慈は急に気軽くなった調子で矢代を見た。
「君がいいん
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