長の紳士姿を羨しく眺めて放さなかった。
「どなた。」
 しばらくして、千鶴子は矢代の後ろへ来ると訊ねた。
「船長ですよ。これから見物に行くんだそうです。あの船長はなかなか自信があっていいですね。外国人は、こちらがちやほやするほど、嬉しそうにして見せて、肚では相手を軽蔑するというけれども、日本人がヨーロッパ、ヨーロッパと何んでも騒ぎ立てるのは、これや、貧乏臭い馬鹿面を見せる練習をしてるようなものかもしれないな。どうも、僕は今日はそう感じた。」
「それや、そうだとあたしも思いましたわ。今日街を歩いていたとき、あたしの前を西洋人の親子が一緒に歩いていたんですのよ。そしたら、お父さんの方が子供にね、お前も少しぴんと胸を張って歩け、こうしてっと云って、自分が反り返って歩いてみせるんですの。そしたら、十六七の子供の方も猫背をやめてぴんと反って歩くんですの。」
「ははア、じゃ、やっぱりヨーロッパの人間は、それだけはしょっちゅう考えているんですね。羞しがったり照れたりしちゃ、もうお終いのところなんだ。」
 矢代は日本人のいろいろな美徳について考えた。洋服を着ても謙遜する風姿を見せない限りは出世の望みのなくなる教育法が、次第に洋服姿の猫背を多く造っていく日本の社会について。――
 しかし、矢代はこのとき、どうして自分がこれほども日本のことを考えつづけるようになったのか、全くそれが不思議であった。何も今さら考えついたことではないにも拘らず、一つ一つ浮き上って来る考えが新たに息を吹き返して胸をゆり動かして来るのだった。マルセーユが見え出したときから、絶えず考えているのは、日本のことばかりと云っても良かった。まるでそれはヨーロッパが近づくに随って、反対に日本が頭の中へ全力を上げて攻めよせて来たかのようであったが、こんなことがこれからもずっと続いてやまないものなら。――
 ああ、今のうちに、身の安全な今のうちに日本の婦人と結婚してしまいたいと矢代は呻くように思った。
 矢代が黙りつづけている間千鶴子も同じような恰好で欄干に胸をつけたまま黙っていた。それが暫くつづくと何かひと言いえば、今にも自分の胸中を打ちあけてしまいそうな言葉が、するりと流れ出るかと思われる危険さを矢代はだんだん感じて来るのだった。
 何も千鶴子を愛しているのではない。日本がいとおしくてならぬだけなのである。――
 このような感情は、結婚から遠くかけ放れた不純なものだとは矢代にもよく分った。けれども、これから行くさきざきの異国で、女人という無数の敵を前にしては、結婚の相手とすべき日本の婦人は今はただ千鶴子一人より矢代にはなかった。全くこれは他人にとっては笑い事にちがいなかったが、血液の純潔を願う矢代にしては、異国の婦人に貞操を奪われる痛ましさに比べて、まだしも千鶴子を選ぶ自分の正当さを認めたかった。
「あのね、あたしの知り合いのお医者さんで、ここの波止場で夜遅く船へ一人で帰って来たら、倉庫の所から出て来た男が、ピストルを突きつけて、お金を出せって云ったことがあるんですって。きっとあのあたりでしょうね。」
 と千鶴子は真下に延びている黒い倉庫の方を指差した。千鶴子の考えていたことは、そんなことであったのかと矢代はがっかりとしたが、しかし、今にも危い言葉の出ようかとじっと自分の胸を見詰めていた矢代にとっては、これは何よりの救いだった。
「じゃ、僕があなたにお世話されて来たあのへんですね。どうしましたその人?」
「お金を少しやって、大きな金は船にあるから船へ来いと云ったら、梯子もついて昇って来たとか云ってましたわ。ここじゃ、撃たれればそれまでですものね。」
 矢代は笑いにまぎらせながらも、軽いこのような話に聞き入る自分をまだ結婚の資格はないものと考えた。
「しかし、ここにいると奇妙なことも起るでしょうが、たしかにまともに理解出来そうもないことばかり、ふいふいと考えるようになりますね。僕もさっきから、どうも奇怪なことばかり頭に浮んで来て困りましたよ。これでパリへ行ったらどんなに自分がなるのか、想像がつかなくなって来ましたね。」
「あたしもそうなの。」
 千鶴子は矢代の顔を見ながら、片頬の靨に快心の微笑を泛べて頷いた。
「これじゃ僕は外国の生活や景色を見に来たのじゃなくって、結局のところ、自分を見に来たのと同じだと思いましたよ。それや、景色も見ようし、博物館も見るでしょうが、何より変っていく自分を見るのが面白くて来たようなものですよ。今日一日で僕はずいぶん変ってしまいましたね。皆今夜帰って来て、どんな顔をして来るか、これや、見ものですよ。元気のいいのはあの老人の沖さんだけだ。僕は足まで動かなくなってしまったし。ははははは。」
 と矢代は笑うと千鶴子から遠ざかって甲板の上を歩いた。
 いや、良かった。危いところを擦り抜けた。もしあのとき、うっかり口を辷らせてでもいたら――とそう思うと軽い戦慄を感じて来るのだった。


 朝靄のかかった埠頭ではやがて船の荷積も終ろうとしていた。パリへ出発する一団のものは、眠そうな顔でそれぞれ船室からサロンへ集って来た。
「さア揃いましたか、それじゃ、行きましょう。」
 と案内人が簡単に云った。
 船客と友人になってしまった船員たちは、甲板や梯子の中段に鳥のように集りたかって別れの言葉を云ったが、どの人人も真心のこもった表情で欄干の傍からいつまでも姿を消そうとしなかった。海の人の心の美しさを今さらのように感じた船客たちも、悲しそうに幾度も幾度も振り返って、さようならさようならを繰り返しつつ関門の前に待っている自動車の傍までゆっくりと歩いた。
 千鶴子と沖氏は船客と一緒に自動車の傍までついて来た。
「さようなら、御機嫌良う。」
「またパリでお逢いしましょう。」
 三台の自動車がいっぱいになったとき、矢代は千鶴子を一寸見た。千鶴子は別れればまた逢う日の方が楽しみだという風に、にこにこしながら皆に挨拶をしていた。
 自動車はそのまま無造作に駅へ向って走っていった。マルセーユの駅は美しい篠懸《すずかけ》の樹の並んだ小高い街の上にあった。車から降りたときは、一同の顔は朝靄の冷たさと出発の緊張とで青味を帯んで小さく見えた。さて、これからいよいよヨーロッパの国際列車に乗り込むところであるから、スタートに並ばせられた選手みたいに、それぞれ切符を渡されても誰も黙って眼を光らせたまま案内人の後からついていくだけだった。
 ホームの上は煙に曇った高いガラスがドームのように円形に張っていて、褐色をした列車が生温い空気の籠ったその下に、幾列となく並んでいた。矢代が久慈と一つのコンパートメントに席をとると、若い者はどやどやとその一室に集った。
「もうこれでいいんでしょう。」
 と初めて一人が言葉を云った。まだ何かしなければならぬことが、沢山残っているような気のしているときとて、
「ええ、もうこれで、ただ乗ってらっしゃれば、パリまで行きます。」
 と案内人は笑って答えた。
「じゃ、昨夕のことをそろそろ話し合おうじゃないか。」
 と一人が云うと、皆は漸く安心した気楽さに返って、見て来たマルセーユの夜街の面白さを話し始めた。しかし、それらの話は誰も面白かった。それだけどこか面白くなかったという表現をするのであった。
「あなたはどうだった。」
 と久慈は矢代に笑って訊ねた。千鶴子と二人ぎりでいた船内のことをひやかしたのだとは一同すぐ感じたらしく、皆矢代の方を向いた途端に汽車はパリへ向って出発した。
「僕もなかなか面白かったな。」
 と矢代は久慈の先手を打ったつもりであったが、駅を出た野の美しさに、もう人人は耳を傾けようともしなかった。昨日ノートル・ダムの上から見た半島が現れ、丘が見え、海が開けて来るに随って、だんだんマルセーユは遠ざかっていった。
 杏の花の咲き乱れている野、若芽の萌え出した柔かな田園、牧場、川と入れ代り立ち変り過ぎ去る沿線の、どこにもここにも白い杏の花が咲き溢れて来て、やがてローヌ河が汽車と共にうねり流れ、円転自在に体を翻しつつもどこまでも汽車から放れようとしなかった。
 矢代はしだいに旅の楽しさを感じて来た。たしかにフランスの田園は日本のそれとは全く違った柔かな、撫でたいような美しさだと感歎した。一木一草にさえも配慮が籠っているかと見える築庭のような野であった。
 その野の中をローヌの流れが広くなり狭くなるにつれ、芝生の連りのような柔軟な牧場ばかりがつづいて来た。一本の雑草もないようなゆるやかなカーブの他は山一つも見えなかった。
「フランスの田園の美しさは、世界一だと威張っているが、なるほど、これじゃ威張られたって、仕様がないなア。」
 と三島が云った。
「こんなに綺麗だと、見る気もしないや。これじゃ、パリはどんなに美しいのかね。」
 と商務官が云う。
「さきから見てるんだけれど、鉄道の両側に広告が一つもないな。バタの広告がたった一つあるきりだ。村も日本の十分の一もないが、これで都会文化が発達したのだね。」
「フランスは自国民の食うだけのものは、自国内にあるんだから、植民地の蔵から軍備費だけは、充分出ようさ。」
 こう云う医者に商務官はまた云った。
「しかし、われわれがヨーロッパ、ヨーロッパと騒いで来たのは、騒いだ理由はたしかにあったね。いったい自分の国を善くしたいと思うのは人情の常として、誰にでもあるものだが、騒ぎすぎると、次ぎには要らざる人情まで出て来るのがそれが恐いよ。」
「それやね、国というものを考え出すと、われわれ医者も生理的に苦労をするよ。しかし、まア、君のように、人情を出しちゃ、病人が死んでしまう。」
 と医者が商務官を見て云った。
「しかし、医者だって仁術という人情があろうからなア。藪医者ならともかくも、非人情じゃ病人こそ災難だ。あなたがドイツへ行かれて勉強して来て、薬の分量をそのまま日本人に使うのですか、危いもんだねそれや。」
「いや、医者はね、死にたくて溜らぬ人間でも、生かさなくちゃならんのだよ。」
 皆この医者の云い方にどっと笑った。
 しかし、一度びこのような話が出ると、意見のあるものもはッと危い一線に辷って来た自分の頭に気がついて黙るのであった。
 何かの職業に従事している教養のある者たちは、自身の教養を示す必要のある機会毎に忘れず言葉を出すものだが、一旦話が自分の職業の危い部分に触れて来ると誰も話中から立って行く。それとはまた別に面白いのは、自分に知性のあることをひそかに誇っていたものたちの顔だった。これらのものは、昨夜で自分の思っていた知性も実は借り物の他人の習慣をほんの少し貸して貰っていただけだと分り始めた顔で、見合す視線も嘲笑のためにひどく楽天的な危い狂いがあった。
 話がぷつりと途絶えたころ、久慈は茶が飲みたくなりボーイを呼ぶために呼鈴を押そうとしたが、ボタンはどこにも見つからなかった。それだあれだと一同の騒いでいるとき、久慈は急に立ち上って、頭の上にぶら下っている鐙形《あぶみがた》の引手を引いてみた。
 すると、間もなく今まで走っていた列車は急に進行を停めてしまった。何ぜ停車したのか分らぬままに一同は窓から外をうろうろしながら覗いていると、車掌が部屋へ這入って来た。久慈は車掌の云うことを聞いていたが、見る間に顔色が変って来た。彼は吃り吃り片手をあげ、
「いやいや、呼鈴がないのでこれを引いてみただけだ。どうも失敬失敬。」
 とフランス語で平謝りに謝罪した。一同ようやく汽車を停めたのは久慈だと分ったらしく、今に一大事が持ち上るぞと云う風に愕然として車掌の顔を眺めて黙っていたが、ここではこんなことは日常のことと見え、久慈の弁明を聞いていた車掌も意外にあっさりとそのまま廊下へ出ていった。
「あなたも豪いもんだな、国際列車を停めたんだから、もうこれで日本へ帰ったって威張れたもんだよ。」
 と医者が云った。皆の青くなっているうちに、また汽車は無造作に走り出した。
 ローヌ河が細い流れとなり、牧場が森となってつづいて行って、だんだん夕暮が迫っ
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