びに果物を届けたり、チョコレートの贈物をしたり、だいぶ無い金を使わせられた。婆さんの娘の子が肺病で入院してるもんだから、この娘にまで贈物をしなくちゃならんのだ。弱った弱った。」
「じゃ、もう随分お撮りになったんですのね。」
と真紀子は初耳のように感心して訊ねた。
「いや、外だけ二百枚ばかりです。一般の通路は平凡で、写真にならんのですよ。禁止区にばかりいい所があるもんだから、今日もこれから一つ婆さんにこっそり頼んで、裏門から中へ這入る鍵を借ろうと、実は謀らんでるところなんです。事務所へ行っても、一ぺんに断られたんですよ。婆さんもなかなか落ちん。」
「苦労だね。しかし、そいつは駄目だろ。」と久慈は云った。
「お堂の中を分らんように、お祈りしてるようなふりをして、やっと三枚とったことがあるが、何しろ暗い上に十二に絞って、四十秒の手持ちだからみな駄目さ。裏門からは婆さん十五年も門番をしていて、一度もまだ這入ったことがないのだそうな。恐らく一人も這入ったものはいないだろうと、婆さんは云うんだがね。そこを何んとかして一つと、虎視眈眈としてるんだ。」
「それや、あそこなら化物が出るぞ。」と久慈は笑って云った。
「出るかもしれんね。怪獣と棲んだ背虫男の幽霊ぐらいはいるだろうな。じゃ、一寸行ってみてくる。」
塩野の姿が門の方へ消えたとき、不可能な企てに憑かれてしまっている彼の熱心さをまた三人は笑った。
「ところで、東野さん、さっきの俳句とノートル・ダムの関係は、どうなったんですか。そこが一番聴きたい所だな。」
と久慈は半ばひやかすような口ぶりで催促した。
「ああ、それか。それはなかなか難しいぞ。このノートル・ダムはパリの伝統を代表してるものだし、俳句は日本の伝統を代表したものだからな。」
「だから真面目にあなたの解釈を聴きたいんだ。反抗はしませんよ。今日はもう柔順になる。」
「ノートル・ダムの精神はもう云っただろ。俳句精神というのも、それと似たりよったりさ。つまり、この建築の対象は空だ。しかし、俳句の対象は季節だ。季節といっても、春夏秋冬ということじゃない。それを運行させているある自然の摂理をいうので、つまり、まアこれは物と心の一致した理念であるから、神を探し求める精神の秩序ともいうべきでしょう。ここに知性の抽象性のない筈はないので、それがあればこそ、伝統を代表しているのだから、俳句は花鳥風月というような自然の具体物に心を向けるといっても、その精神は具体物を見詰めた末にそこから放れるという、客観的な分析力と綜合力がある。そんならここに初めて科学を超越した詠歎の美という抒情が生じるわけだ。しかし、抒情が生じただけではまだ完全な俳句とは云い難いので、さらに転じて、どのような人間の特質の中へも溶け込む、いわば精神の柔軟性という飛躍が必要だ。踏み込みだ。」
「おかしいな。そこが分らん。」
と久慈は呟いて俯向いた。すると、東野は、暫く久慈の顔を見詰めていてから、物も云わずいきなり久慈の足をぐっと踏みつけた。
「痛いだろ。」
「痛い。」
「つまり、そんな風なものさ、この痛み、どこより来たる。といった風な疑問に還る精神が、俳句だ。」
「禅坊主だね、あなたは。」
と久慈は云って突然空を向いてあはあはと笑い出した。丁度、こうして皆の笑っているところへ、顔を充血させた塩野が上着の下へ片手を突き込み、足もとから鳩を吹き上らせて、
「しめたッしめたッ。」
と叫びを耐えた声で馳けて来た。首でもかき取って来たような様子である。
「婆さんとうとう、貸してくれたぞ。一日千秋の想いを達した。これだ。」
塩野は人に知られぬようにあたりを見廻してから、上衣の下から大きな鍵を覗かせた。錆びの這入った、長さ五六寸もあろうと思える五本の鍵が蒲鉾《かまぼこ》板のような板の一点に、それぞれ紐で結わえつけてある。久慈は、塩野の脇腹からちらりと眼を開けたパリの歴史の首を見た思いで、瞬間ぞッと鬼気に襲われ我知らず周囲を見廻して黙った。
「今日はこれや、死にそうだ。君たちも来てくれないかな。」
興奮のため幾らか青くなって来ている塩野に、
「よし、行こう。」
と久慈は云って立ち上った。
「三時半ごろになると事務所のものがいなくなるから、そのとき注意して行けと云ってたが、もう良いだろうな。」
「見られたってかまやしないさ。キリストに君は招かれたんだよ。」
久慈は躊躇している真紀子に、
「あなたもいらっしゃいよ。千載一遇の好機だから、僕らも中で俳句を作ろう。」
「だって、恐いわ。そんな所。」
尻ごみして進まぬ真紀子の腕を久慈は捕え、塩野のあとから裏門の方へ近よった。裏口から四人は中へ這入ると掃除のしてある部屋が二つあった。そこを通りぬけて階段を一つ上った二階のところにバルコンが見えたが、そこから塩野は、角度を選んで裏口の写真を四五枚も撮った。バルコンの次ぎに大広間が拡がっている。それを横切って階段をまた昇ると初めて三階に出た。一同を喰い止めている鉄の扉のあったのもそこだった。その扉も鍵を合すと無造作に開いたので、そとへ出られるらしい気配のまま歩いているうちに、いつの間にか正面の『諸王の廊下』へ出てしまった。
「何んだ、これや俳句にも写真にもならんじゃないか。」
と久慈は云って引き返した。すると、また一つ別の鉄の扉に出くわした。これは固く錆びついていたが、力を籠めて押すとぎいぎい重い音をきしませて開いた。扉の向うは通路になっていてもうここからは暗く、石の冷たさがひやりと頬にあたって来た。塩野は、
「そろそろ怪しいぞ。」
と云いつつ首だけ突き込んでみていてからそっと中に這入った。そこも別段変った所もなかったが、通路の端の所にまた一つ扉があった。塩野は手で撫で擦りながら鍵穴を見つけた。この扉は一番固くて鍵を廻しても廻しても容易に開きそうもなかった。やむなく久慈と二人で肩を揃えうんうんと気張っているうち、ようやく幾らか開いて来た。すると塩野は悲鳴のような声で、「牢屋だ、ここは。」と云ったまま立ちすくんだ。
一層冷たくなった石壁の上の方に、横二尺縦五寸ほどの細長い窓が三つあるきりで薄暗い。染みつきそうな黴の強い臭いの襲って来る中を三二歩四人が中へ這入り込んだ。暗さで初めは分らなかったが、ふと久慈は足もとの柔らかさに俯向いて見ると、暗灰色の埃りが三寸ばかりの厚さで一面に溜っていた。
「これはどうだ。人知れぬ埃りだな。」と久慈は云った。
まったく誰からも忘れられてしまって、こうして佗しい年月の埃りを降り積らせていただけの部屋を見ると、急にどきんと胸の中で鳴り進む精神を見る思いで、陰に籠って響く自分の声にも、精霊の巻きつきそうな冷たさを久慈は感じた。歩く毎に死の臭いを吸い込むような無気味さである。前方に扉が見えていても、荒涼としたこの部屋に這入ってはもうそれ以上進む気持ちがなくなった。
「東野さん、どうです。まだだいぶあるらしいが、全部行きますか。」
と久慈は薄暗がりに浮いている東野の顔を見て訊ねた。
「君たちもう帰ってくれ給え。何んでもこの鍵全部使うと、上まで出られるようになってるんだそうだから、僕だけは一寸行って見て来る。」
塩野はそう云って次の扉をがたがた鳴らせると、これだけは鍵の用なくすぐ開いた。
外のその部屋は石牢より大きな部屋で窓もまた大きかった。ここは窓が閉め切ってあるためか埃りが少なかったが、暑さにむれた黴の臭いで重苦しく胸を押しつける空気が満ちていた。手巾の香水の匂いを振り振り後からついて来た真紀子は部屋へ這入るなり、突然久慈の肩に飛びつき、
「あッ。」
と叫んだ。一同真紀子の方を振り返ると、一隅から飛び立った蝙蝠が壁にあたってばたばたと羽音を立てていた。丁度|蝙蝠《こうもり》の突き衝っている壁の上方高く一枚の額のあるのを久慈は見つけた。暗さの中で埃を冠っているのではっきりとは見えなかったが、何んとなく聖体拝授の儀式絵らしい。
「おお、恐わ。何か出て来たんだと思ったわ。」
真紀子はまだ久慈の腕を掴んだまま青ざめて云った。
「あたし、もう帰りたいわ。何んだかぞくぞくして来るんですもの。」
「しかし、鍵はもう三つも使ったんだから、後二つでしまいだ。二つなら行ってしまおう。恐わけれやあなた僕に掴まってらっしゃいよ。」
久慈は絵の下へ近よって石のざらざらした肌に手をつき、
「どうだ一つ記念にこの額持って帰ろうかね。大司教のいたところだから、この絵必ず名人の絵に定ってるよ。」
「駄目よそんな乱暴な。」
真紀子が久慈の手を後ろへ引きつつ戻ろうとしている間にも塩野だけは、未開の境地を突進するような執拗な眼つきで、早や次の鉄の扉の鍵穴に鍵をさし込み、ひとりがちゃがちゃと鳴らせていた。しかし、その扉の固さは蹴りつづけ押しつづけても開かなかった、蝙蝠だけ扉へぶち衝る塩野の肩の鳴る音にびっくりして、皆の間を馳け廻ってはまた壁に翅をぶっつけた。いつまでも扉が開かぬと塩野と東野も束になって扉にあたった。すると、きしみながら僅に扉の開いた向うから、急にぱっと西日が眼を射した。そこは外郭だった。こちこちに固った鳩の糞が一面|堆《うずたか》く積っている。
「ほう。ビクトル・ユーゴー、ここへ来たにちがいない。背虫男の好きそうな所だなア。」
塩野は鳩の糞を靴先でつつきながら、
「しまった。懐中電灯忘れたのが、何よりの失敗だ。」
としきりに残念がりつつ、今度も真先に外郭をずっと裏口の方へ進んでいった。そのうち行く手が石の廻り階段になった。十三世紀特有の眩暈のしそうな石段は、もう烈しい腐蝕で靴をかける度びに破片がぼろぼろ崩れ落ちた。またそこは高い上の方に、小さな空気抜きの穴がところどころにあるきりなので一層暗かった。石壁を手と足とで擦り上らねばならぬ。
「しまったな。懐中電灯忘れるなんて、しまった。」
とまだそんなに口惜しがっている塩野の声が、もうよほど上の方でする。真暗なうえに真紀子を曳いて昇らねばならぬから、久慈は息苦しさにときどき立ち停った。東野は俳句の種を探しているのか、前から黙黙として一言も物を云わず、厭そうな顔をしているだけだった。空気抜きからかすかに光りの射し込んで来るところは、互の顔もおぼろに見別けられたが、暗くなって来ると真紀子は、
「恐いわ、恐いわ。」
と云って久慈から放れなかった。手探りで廻り昇るため方向の変り日毎に二人は突き衝ってばかりいた。石の古さの発散させる強烈な酸性の臭いに充ちた闇の中では、うっすらと汗を含んで蠢めく真紀子の体の温みは、死を貫きのぼって来る生き物の真っ赤な美しさに感じられた。
「どこまで昇ったらいいんだ。まだか。」
と久慈は上を仰いで塩野に訊ねた。そんなに訊ねている間にも真紀子と久慈の昇る力が喰い違った。二人が蹌踉めいて壁に衝きあたるときにも、脆い石の肌がぼろぼろ首筋へこぼれ落ちた。
「まるでこれや、歴史みたいだな。」
と久慈は闇の中で呟いて笑った。
「だって、恐いのよ。あなた見えて? あたしちっとも見えない。」
上では昇りつめたらしい塩野がもう扉にぶち衝っている音がしていた。五つ目の最後の鍵を廻す音も同時に聞えた。
「早く来てくれエ。固い固い。錆びてやがる。」
塩野はそんなに云いながらまたどすんどすんと体当りをしつづけた。皆が上へ昇り着いたとき塩野はいら立たしそうな声で、
「どの鍵も合わん。ちぇッ。」
と云って、滅茶苦茶にがちゃがちゃと鍵を廻してはまた別のを嵌めてみた。
「駄目かな、これや。」
下唇を噛んだまま手を休めて暫く扉を無念そうに仰いでいてから、彼はまた狂ったように扉に突き衝った。すると、永らく風雨に閉じ詰っていた扉は下に鮮やかな新しい条目を印けて開いた。初めて生きた気流に触れた爽爽しさで外郭へ立って見ると、ここは丁度御堂の真上の屋根のうえで鐘楼の下であった。怪獣が欄干のいたる所にたかっている。馬、熊、鳥、兎、鹿などの変態が、戯れた鬼のような容子で、のどかにパリの街を見降ろしながら遊んでいる。
「ここへ来た
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