どうしたのです。それはあなたの失敗なんですか。」と久慈は重ねて訊ねた。
「いや、工場へ這入る前に庭で二三分待たされましたから、多分そのときどっかから光線をあてて透してしまったのだと思います。」
 聞いていた者らの顔色はさッと変って黙った。久慈も一瞬無気味な寒さに襲われた。しかし、考えればそんなことは当然のことで別に怪しむに足りぬことだと思った。眼に見えぬ光線を透されたのは写真の種紙ばかりではない。この部屋に集っている東洋人の頭の中の種紙も、誰も一様にある光線にあてられすでに変質してしまった頭になっていた。表面の顔は変らぬながらも、一言もの云えば無数の手傷を負った頭を直ちに暴露するのである。またそれらの頭の変化の仕方は久慈型か矢代型かのどちらかであり、もう一層激しいのは隣室の中国人同様全く西洋の模倣そのままの頭だった。
 隣室の中国人の集りはわけてもこの変化が極端であった。場所の不潔さは面を蔽いたくなるほどだったが、ホールではテーブルを囲んだ男たちの中へ誰か一人中国の女が来ると、同時にさッと皆が立ち不動の姿勢で女の腰を降ろすまで直立して待っていた。女は椅子の背に露わな腕を廻した不行儀な横着さで、煙草を吹かせひとりべらべら饒舌りまくっている間も、男らは神妙な恰好で女の云うことを傾聴していた。数組のテーブルの中にはこれとは別な中国人もあって、それぞれフランス人の美人を一人ずつ連れていた。これらの者はもう東洋人は卒業だという顔つきで、一種特別なみいらに似た物静かな構えだった。
 久慈はこのようなみいらが団結した模倣力で、それぞれ本国の東洋に渦巻き起す風波の結果を考えると、抗日意識の高まりが戦争を惹き起してゆくことなど当然だと思った。これは行くところまで行かなければ恐らくやむまい。ここに日華の共通した精神の連結作用が、どちらも西洋の模倣という一点に頼る以外方法はないものであろうか。何か東洋独自の精神の結合に似た一線はないのであろうか。
 久慈は中国人のいる大部屋の方を眺めながら、いつの間にかまた矢代の日ごろの考えの中に入り込んでいる自分を発見して、いや、おれのはまた矢代とは別だ、共同の一線を発見することだと強いて心中思おうとするのだった。
 約束の時間がすぎて間もなく矢代は二階へ上って来た。彼は久慈の傍に思いがけない沖や三島のいるのを見つけると、故郷の見えたようにひどく喜んで云った。
「やア、これはこれは、御無事で何よりでした。」
「今さきも云ってたところですが、老人で西洋へなんか来るもんじゃありませんよ。もうわたしゃ、馬鹿にされて、馬鹿にされて。ひとつ帰ったら、うんとやってやろうと思うてます。何んじゃこんなもの。土産一つ買おう思うても、うっかり珍らし思うて手を出すと、日本品や。いやはや、なっとらんですな。」
 と沖はまたしても大声で誰はばからず云った。他の客はいつまで待っても来ない料理に腹立てボーイを呼ぶと、僅か一本のビールを持って来ただけだったが、それも隣室の人目を忍ぶ風に布の下に隠して持って来た。日本の客たちは怒って出て行くものもあった。ボーイが漸く皿を少しずつ運び始めたとき、隣室の中国人の中から呶鳴るものがあった。
「もうこのごろの世界は、どこでも女に焚きつけられとる。うアはッはッは。」
 と今まであまり隣室の方へは注意しなそうに見えていた沖も、癇に触れたらしくそう云って笑ってから、突然ボーイを睨めつけ日ごろの社長の権幕で、「おい、ボーイ、来んか。」と、去りかけたボーイを呼んだ。しかしボーイは振り向きもしなかった。「ボーイ。ボーイ。こらッ。」
 と沖は呶鳴った。すると、向うの部屋の中国人たちは一斉にこちらを見て何事か激しい罵声を沖に浴せた。沖は立ち上ったかと思うとナフキンを投げ出した。そして、船の中の茶会でよく外人に演説したように実に見事な英語で隣室の方に向って云った。
「料理屋で料理を食うのは国民間の親愛のもとであります。すべて平和というものは食事から来るとは、中国の大哲の教えだと思います。それに諸君は外国に来てまで、われわれの空腹に反対をせられるか。ここはフランスでありますぞ。君らの尊敬する外国で毎日勉強したことが、空腹の者にも自国の食事を与えるなということでありましょうか。これ甚だ東洋人たるわれわれの遺憾とするところであります。われわれの東洋には、戦うときでも敵に塩をやって決戦した、礼儀や仁徳をモットオとした英雄の日月があったのであります。」
 ひどい近眼の大きな顔をいつもにこにこ笑わせている沖が、こういうことを云うときも絶えず笑っていたので、鋭い内容の演説も柔ぎがあったが、運悪くここは英国語ではなかったから、船中のようには聴手にうまく響かなかった。隣室は急に騒がしくなるばかりで、沖に殴りかかろうとする頑な二三の顔が窓からこちらへ顔を突き出し、歯をむき出した。
「これや、何云うても仕様がないわい。料理をくれん方が勝ちじゃ。出ましょうや阿呆らしい。」
 と沖は急につまらなそうに云うと立ってもう帽子を冠った。久慈や矢代らだけではなく皆も沖の後からついて階段を降りていったが、罵声が一層強く後の方でするだけでボーイは挨拶一つしなかった。
 出たところの往来はパンテオンの方から下っているサン・ミシェルの坂だった。坂道の繁しい人通りの中を左翼の新聞売子が叫びながら通る。その険しい声の後から右翼の新聞売子が、またそれを揉み消すような声を張り上げて迫ってゆく。その後からまた左翼、右翼と、続続とつづいて通るあわただしい夜のカルチェ・ラタンである。学生街であるからここは王党という学生の理想が一番勢力を占めているので、新聞は左翼も右翼もあまり売れない。目的はただ王党の中に左右の喰い込む術にあるらしかった。
「明日の船で帰られるのなら、ひとつ今夜は遊びましょう。私もパリ祭を見ればロシアを廻って帰りますよ。」
 矢代のこう云う案内で四人は附近のアルザス料理を食べに坂を下った。セーヌ河近くのこのあたりは久慈は今日のうちにもう二度も来た。ノートル・ダムの尖塔の見える薔薇垣の傍のテラスで、羊や鱒を註文してから五人は空腹を柔げると、まだ西洋を見なかったころの印度洋や紅海あたりの船中の食卓を思い、話は楽しくいつまでも尽きそうになかった。
「しかし、何んですよ。これでわたしらは運悪う大風の中へ来たようなものでしたが、さんざんこちらで揺り廻されてほッとして帰ると、今度は日本にここどころじゃない、大風が吹いてるんじゃありませんかな。二・二六というのはわたしらは見なかったけれども、あの話の模様じゃ、ひと通りの風模様じゃありませんぜ。外国人もみな驚いてますね。日本というところはドラゴンが政治を動かしているそうだが、今度は竜が跳ねたのかといいよる。」
 沖の云うのに三島はドイツで聞いたのだと云って、まるで戦場のような空気の漲っている東京市中の話をした。嘘か真事か一同には分り難かったが、話半分にしても市民の狼狽した話などを聞かされると、日本に吹きつけている不連続線はヨーロッパどころの風ではなさそうに久慈には思われた。
「僕らはまだ若いから分らないのかもしれないが、どうですか沖さん、青年がこんなに沢山考え事をしなくちゃならぬ時代なんて、今までにありましたかね。」
「いや、こんなことは明治以来初めてですな。今までにも大事件は幾つもあったけれど、考えの範囲が狭かったから物事をするのにも熱情がありましたよ。しかし、このごろのは何が何んだか分らない。どうして良いのか見当がつかぬのですよ。明治以来駈け足をしすぎて、心臓が飛び出たのだ。」
 沖の云い方に一同どっと笑ったものの、それぞれ胸倉をひっ掴まれたように急に黙ると沈み込んで羊を切った。
「そうすると、僕たち外国にいるものは、いよいよこれは捨小舟というところかな。」
 と久慈は先夜東野に云われたことをまた思い出すのだった。
「いや、もうどこの国の考え方も世界に分ってしまったのさ。意志を隠そうたって隠せなくなって、外からまる見えになって来たのだよ。どこの国からも左翼が出て、自分の国の秘密をさらけ出してしまったものだから、よしッそんならというので、いちかばちかでどこの国も暴れ出して来たのだ。」
 と矢代は云った。
「そうそう、その通り、どこの国も中に隠れていた心臓が飛び出てしもうて、押し込みようがないのだ。そんならもうこれ、心臓の強さで押すより法がない。そっと隠しておけば良いものを洗い立ててしもうたから、もう穏便に隠しておく必要がなくなって、大っぴらで一層やり良うなって来た。わたしもこれで資本家ですから、その点良う分る。わたしは不良ですが、不良でもこ奴不良だと知って貰う方が、もう暢気で、ええ。」
 来るときの船中でも沖はしきりに、「わたしは不良で、」としばしば謙遜に説明したことがあった。不良を笠に仕事をする心の計画は不快だったが、隠していられるよりまだしも沖の態度に久慈は好意を感じ、食事の味も邪魔にはならなかった。殊に同船で来た客は悪者であろうと何んであろうと兄弟のように見え、内地の批判など役には立たぬ旅愁に誰も襲われていた。いや、むしろ、悪者ほど偉大に見える何ものか間違ったものさえ人は心の中に育て始めていると云って良い。
 久慈はそのような心の自分の変化を今も感じたが、自分も沖のように六十を過ぎてこんな所へ来れば、洒洒として臆面なくあんなに振舞うようになるかも知れぬと、他人事とは思えず、傍の真紀子の身体の危さを度を増し感じるのだった。
「不良は伝染るなア。」
 久慈は意外な発見をしたように矢代の顔を見た。そして、彼はどのような方法で自分を制御しているものかしらと、瞬間矢代と千鶴子のチロルの夜夜のことを考え、あるいはこの矢代は嘘をついているのかもしれぬと疑いさえ起って来た。
「沖さん、矢代はね、なかなかこ奴不良にならんのですよ。あなた意見をしてやって下さいよ。嘘つきだこ奴。」
 久慈はナイフで矢代の胸を指しながら云った。
「あなた、外国へ来て不良にならんのですか。そ奴も少し不衛生だなア。」
 沖はナフキンで口を拭きながら珍しげに矢代を見て笑った。矢代はいつもの癖で男女のことを云われると一言も云わず、顔を赧らめたままただ黙っているだけだった。
「しかし、何んです。こっちへ来ると思うたよりも興味はなくなりますな。殺風景で面白うない。そうそう私は昨夕面白い青年に会いましたよ。どっか踊場へ連れて行けと云うたら、切符制度の踊場へ引っぱって行って踊っているうち、ああ驚いたと云って席へ戻って来て、こう云うんですよ。今自分と踊っていたあの踊子は、あれは自分が二年前に同棲していた女だと云うのです。ところが、その女とその晩三度も踊っていて、まだ昔の女だとは気が附かなかったんですね。二度目に女がにっこり笑うもんだから、妙な笑い方をする女だと思っていると、三度目に、あなた忘れたのと云うたというのです。もうみんな、頭が妙な風になっとりますよ。不良のどうのと云ったところで、不良ならまだ良い方じゃ。この青年は二十五六で、まア日本人の五十か六十の男の経験をしてしまっとるですな。あのまま人間が五十か六十になったら、そら恐ろしいことになりますぜ。」
 度の強い眼鏡の底から光る沖の話に聞き手たちは笑ったり黙ったりしているうちに、次第に身動き出来ぬ世界の中へ頭を落し込んでいって暫く何も云わなかった。
「そうすると、僕らは強味だ。まだ若いぞ。」
 と久慈は思いの底を蹴りつけて吠え上るように云った。
「そうそう。あなた方はまだ若い。わたしはもうそれが何より羨ましい。」
 印度洋の中ごろで夜毎に若者たちを悩ました沖の青春時代の思い出談の落ちが、今ごろパリのここで、こんなに淋しく終りを告げたのかと思うと、久慈は沖に代り腕を撫す気持ちで自分の中に鳴る若さを頼母しく感じた。
「じゃ沖さん。御遠慮なく明日はノルマンデイで帰って下さい。後は僕たち青年が引受けますよ。」
「君たちが二世になってくれるか、じゃ乾杯、健康を祝します。」
 コップを上げると沖に皆はまた楽しく笑った。
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