も東野の云ったように他人があると教えたからかもしれぬ。
「畜生。」
頭がばらばらになっていく先き先きに、東野の頭がも早や先廻りをして立っている。もう今夜は眠れない。
矢代と真紀子が二人並んでテラスへ来ても久慈は黙って挨拶もしなかった。
「東野のおやじ。来んかな。やっつけてやるんだが。」
「何アに、それ御挨拶?」
と真紀子は云って久慈の横へ腰を降ろした。
「どうも腹が立ってむしゃくしゃしてるんだ。」
「どうしてそんなに腹が立つの。」
ふと久慈は真紀子を見ると、ウィーンばかりにいたせいかまだ外国擦れのしない真紀子の馴馴しさが、日本のインテリ夫人を見るようなある懐しい古さを匂わせて来るのだった。千鶴子を見ても感じぬ危い溶け崩れるような温暖な情緒が、この良人を離縁して来た夫人の周囲に纏りついていて、一重瞼の一種独特な落ちついた自然さでテラスに異彩を放っている。
「久しぶりだなア。」
と久慈は誰にも分らぬことを口走ると、パリへ来て以来初めて自然に還った瞼の閉じるような思いがするのだった。註文のコーヒーが来たとき久慈は真紀子の茶碗に砂糖を摘んで二つ落した。
「君の亭主は悪い奴だな。」
いきなりそんなに云う久慈を真紀子は一寸恐わそうな表情で眺めてからコーヒーを掻き廻した。
「久慈さん、へんよ。どうしたの今日。」
「だって、こんな外国で自分の女房を一人ほったらかす奴があるもんか。女が出来たって、迎いに来るぐらい骨折ったって良かろうじゃないか。」
「でも、仕様がないわ。あたしがいれば困るんですもの。」
「困るのは向うだけじゃないや。」
別に真紀子に特別な好意をよせずとも、気の毒で溜らぬという久慈の表情は真紀子も感じたらしい。飲みかけたコーヒーも一口唇をつけただけでまたすぐ降ろすと、突然俯向いてしまったまま暫く顔を上げなかった。
「大丈夫だよ。」
久慈は泣きかかっている真紀子の肩を強く打った。真紀子は顔を上げてハンカチで眼を拭いたが、すぐ快活に笑い出した。
「ウィーンって所は、ああいうところなんだわ。あたし、宅がいるもんだから、日本にいるときシュニツラのものをよく読んだの。あそこはユダヤ人問題と恋愛があるだけのようなところだと思ったんだけれど、行ってみてあたし、あそこにいれば恋愛三昧になる筈だと思ったわ。海のない国の寂しさっていうものが、浸み込んでいるのよ。」
「そう云えば思い出した。チェコの青年だったが、マルセーユで海を見て、生れて初めて自分は海を見たんだが、海ってこんなに大きなものかねえって、首をひねって、さも感慨に耐えぬという顔をしてたっけ。」
矢代はあたりの外人たちの顔の中から、海のない国の人間を探し出そうとする風で、
「ここにいる外人たち、みなパリへみいらを採りに来て、みいら採り皆みいらになって本国へ帰っていくのだからな。気の毒なものだ。」
黙っている久慈の顔にさっと紅がさすと、毒毒しい皮肉な微笑が一瞬唇を慄わせたが、それもすぐ沈んで彼は黙りつづけた。まだ矢代に怒るものが自分にはあるのだと思う気持ちを久慈は考えてみたのである。たしかに自分はパリのみいらにいつの間にかなりかかっている。しかし、矢代は何んだ。日本のみいらになってるじゃないか。――
久慈は足の下から眼に見えぬ煙のようなものが立ち昇って来るのを感じた。自分を今まで支えていたと思っていた知識の一切が、形をなさぬ不安な色どりのまま、腰の浮き浮きする不快さが加わっていくばかりだった。
すると、そこへ李と話していたドイツの青年が立って来て矢代に紙片をさし出し、
「これは何んと日本語で読みますか。」
と訊ねた。それは李の書いたものと見え、唐朝人、雀、と作者の最後の名が分らぬらしい風で、画家の好きそうな美しい詩が書きつけてあった。
[#ここから2字下げ]
去年今日此門中
人面桃花相映紅
人面不知何所処
桃花依旧笑春風
[#ここで字下げ終わり]
唐詩を日本読みに返って読んでいる矢代の傍から、久慈も何気なく窺いてみると、人の臭いのもう無くなってしまった門の中で、桃の花だけにたりと笑っている虚無的な風景が泛んで来た。日華の戦争が始まったという最中に、李はこんなことを考えていたのだろうかと、久慈は今自分の考えていたこととの遠さを思いくらべてみるのだった。
「中国人というのはこのパリを見ていても、みな人間の死んでしまった跡の空虚《から》ばかりが眼につくんだね。また後へどこの馬の骨かしら這入って来るだろうぐらいに思ってるんじゃないか。」
ドイツの青年が李の傍へ戻った後で久慈は矢代に云った。
「そうも思わないだろう。そんなことを思っては楽しんでいるだけだよ。人間が空虚になってるところばかり美しく見えるのなら、ここから日本を想像してみなさい。人が一人もいないように見えるじゃないか。実際僕に不思議でならぬのは、ここから日本のことを思うと、いつでも人が日本に一人もいなくて、はっきり、伊勢神宮だけが見えてくることだね。これやどういうもんだろう。」
矢代はブリュウバールの方に日本があると思うらしく、傾いたその道路の方を見ながら暫く黙っていてから、また云った。
「僕はこのごろ本当のことを正直に云うと、日本の知識階級の中に世の中なんか滅ぼうとどうしようと、どうだってかまやしないと思っている人間がいそうに思えて仕様がないのだ。何んだかそんな気がするね。しかし、僕はどんなに世の中がひねくれたってかまわないが、たった一つの心だけ失っちゃ困ると思うものがあるんだよ。それさえあれば善いというものが――ね、そうだろう、なければならぬじゃないか。あるけれども忘れているというような、平和な宝のような精神さ。どこの国民だって、一つはそんな美しいものを持っているのに、忘れているという精神だよ。僕らの国だってそれはあるのに、探すのが厄介なだけなんだ。しかし、僕は見つけたよ。見せよと云われれば困るがね、何んというか、それは云いがたい謙虚極る純粋な愛情だが。」
「それや何んだい?」と久慈は不明瞭な矢代の云い方に腹立たしげに云った。
「こういう歌が日本の昭和の時代にある、父母と語る長夜の炉の傍に牛の飼麦はよく煮えておりというのだ。こんな素朴な美しさというか、和かさというか、とにかく平和な愛情が何の不平もなく民衆の中にひそまって黙っているよ。桃の花さえ笑ってくれてれば良いというのと、牛の飼麦の煮えるのまで喜んでいる心というのとは、だいぶこれで違いがあるよ。ところが、日本と中国の知識階級は、こういう両国の底の心というものをみな知らなくなってしまってる。僕だって君だってだ。殊に君なんかひどすぎるぞ。このまま行けば、僕らは東洋乞食というか、西洋乞食というか、まア君なんか西洋の方だなア。」
「今さらお前は乞食だと云ったって、三日すれや熄《や》められるか。」
どちらか皮肉を云い出せば、髄まで刺し通して共倒れになるまでやり合う習慣がまたしても出かかったが、もう久慈には刺される痛さも感じない、午後の気重い退屈さがのしかかっていた。それは街の石の重さのようにどっしりと胸の底に坐り込み、突いても吹いても動き出す気配のない重さだった。貸家になっている前の家の石壁に打ち込まれた鉄鋲から垂れ流れている錆あとが、血のように眼に滲みつく。それが顔を上げる度びうるさく前に立ちはだかって来て放れなくなると、久慈は椅子ごと真紀子の方へ向き変った。真紀子の黒い服の襟から覗いている臙脂のマフラが救いのように柔い。
「これからセーヌ河へ行こう。君は用事があるなら夕飯を八時として、サン・ミシェルの支那飯店で待つことにしょうじゃないか。まさか毒も入れまいだろう。」
こう云う約束で久慈と矢代は別れてから、久慈は真紀子と二人でセーヌ河の方へ行くバスに乗った。
八時になって久慈は疲れた身体で矢代と約束の支那飯店へ行った。二階は二間に別れていて大きな窓をへだて、どちらからもよく見えた。小さな八畳ほどの部屋には日本人が主だったが、大きな二十畳ほどの部屋の方には中国人の客が多かった。日華の戦争の始まったニュースの大きく出た日のこととて、中国の客の視線は一様に薄青い光で反撥し、眉間による皺が漣のようにホールの中を走った。ボーイも中国人だから大部屋への遠慮もあると見え、卓を叩いて呼んでもなかなか日本人の部屋へ這入って来なかった。本国が戦争だという日に、敵国の人間が乗り込んで来たということは、自分の城に侵入されたと同じ嫌悪を感じるのであろう。遠くから一二怒声に似た声も聞えて来た。
「大丈夫なの?」
と真紀子は小声で恐わそうに久慈に訊ねた。
「大丈夫さ。殺されるようなことはない。こんなことで殺されればもう中国は人間じゃない。動物だ。」
「だって、それや分らないわ。」
「しかし、支那料理のような美味い料理を造る国だから、中にはなかなか優れた人間もあるにちがいないでしょう。喧嘩は誰にも分らぬ方法で始末してゆくだろうと思うな。」
日本人のテーブルはどれも料理がまだ来なかったが、皆は黙って待っていた。すると、そこへ船で一緒の客だった沖老人が三島と二人でひょっこりと顔を出した。沖は船会社の社長を辞めて漫遊に来ただけでもうパリにいない筈だったし、三島も同様にベルリンへ機械の視察に行っただけだったから、この二度目の会合はむしろ奇遇で同級生と会ったように懐しかった。
「しばらく。あなたはイタリアへ行らしったという話でしたが。」
と久慈は立って白髪の見える沖と三島に挨拶した。
「イタリアから昨夕帰りました。明日の船でアメリカ廻りでまた日本へ帰りますよ。」
沖はベルリンから戻った三島ともホテルで偶然一緒になり、明日の船のノルマンディもまた二人は同じだということだった。見たところ暫くの間に三島は一層前より憂鬱な顔に変っていた。沖は反対に老人にも拘らず眠っていた闘志が燃え上って来たらしく、若者のようないら立たしさが額のあたりにてらてらと光っていた。
「はア、もうイタリアではボラれたボラれた。ネープルスを見んと死ぬなというから、ベスビヤスまで登りましたが、自動車賃をあなた、たった二時間半で二百五十円とりよった。それにネープルスは汚いとこじゃ。あんなとこ見て死んでられるかい。わしは日本へ帰ったらもう一ぺん会社を起してやろうと思うてます。何アに。」
こう沖は云ったと思うと声の調節がつかぬと見え馬鹿に大きな声で、「何んですなア、西洋という所は、男ひとりで歩くと馬鹿にしよる。もう酷い目に会うた。こんどは一つ、うんと美人をつれて歩いてやらにゃ、もう腹の虫が納まらん。」
部屋の中の日本人は皆くすくすと笑い出した。沖は一同を見廻すと演説をする時のように腹を突き出し、「ははア。」と愛想笑いを一つして云った。
「わたしは昨日まで日本語を一つも云わなかったもので、もう今日は皆さんを見ると、饒舌りとうて仕様がない。」
聾者が急に聞え出したように噴出して出る想念の統制がつかぬのであろうか。沖の云うことには全く連絡がもうなかった。
「三島さん、何かお土産ありました。」と久慈は黙って沈み込んでいる三島に訊ねた。
「いえ、何もありません。帰ったら叱られそうで考えてるところです。」
多額の金銭の支給を受けて視察を命ぜられ、何一つ新しい発見もせず明日帰ろうという機械技師の苦衷は、自分の想像外の気重さだろうと久慈は思った。
「一つもないって、じゃ、やはり日本はそれだけ進んでしまったのですか。」
「そうですね。」と三島は、日本がそれだけ進んだのか或いは自分の鈍感さの結果だったかはまだ疑問の風で笑顔一つもしなかったが、「一度ある国でこんなことがありました。僕が工場を視察していましたら、面白い形の機械を一つ見附けましたので、珍しそうに眺めていますと、向うから写真を撮るなら撮って下さいと云うのです。どこでも視察は許しても写真だけは許しませんから、親切なところもあるものだと感激して、それではどうぞと幾度もお礼を云って撮らせてもらいましたが、宿へ帰って現像をして見ましたら一枚も写っておりませんでした。」
「
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