光沢の中からパリのオーグスト・コント通りの街区が泛んで来た。あの通り全体ちょうどこんなだったと思うと、千鶴子とパリで別れた最後の夜、雨の降る中をそこまで来て、ベンチへ倒れ込むように腰かけたときのことが思い出され、それも今はこうしてそのときの苦しげな姿を手にとり眺めている自分だと思った。硯から手を放し、彼は後にいる千鶴子を見た。手摺によせかけた体を曲げ、庭の芒を眺めている千鶴子のなまめかしい矢絣の紫が、今日は重い帯をつけ打てば鳴り出しそうに休んでいる。
「眉子山房も真紀子さんの弟子だと容易じゃないなア。」と矢代は云った。
「今日いらっしゃるかもしれないわ。今お電話のようでしたから。」
「しかし、それはいいとしても、あの二人の前で久慈のことを話していいかどうか、そこが難かしい。」
「でも、そんなこと――さきほどだって、東野さんから久慈さんのこと仰言ったんですもの、いいと思うわ。」と千鶴子は矢代を見上げた。
「それにしてもさ、真紀子さんの方は、そうでもなかろうからね。」
 もうなんの係りもないとはいえ、矢代はこう云うときでも、まだ千鶴子を知らぬ以前の、久慈と千鶴子の交渉の睦じさが眼から取り去
前へ 次へ
全1170ページ中986ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング