書いたの。後でお渡ししますわ。」
「それはどうも――」
「なるだけあなたも早くお帰りになってね。」
浴槽の縁へ溢れる湯の波が、朝の眼醒めのようにぴちゃぴちゃ元気よく鳴りつづけた。窓の上の長い氷柱の垂れ間に聳えた雪の山山を眺めていると、矢代は二人の結婚の前に邪魔している多くの事柄も、もう考えるのはいやだった。湯の温まりが全身に廻って来たとき、彼は窓の傍へ行って身体を冷やした。そのあたりだけは霧が届かず、見るまにガラスが体の温気を吸いとって曇っていった。どの樹も雪にしな垂れた峡間の冷たさが膝もとから刺し上って来た。
「東京へ着くのは幾時ごろです。」
矢代はうっすらとぼけ霞んで見える千鶴子の方を向いて訊ねた。
「三時過ぎになりますかしら。」
日の光りが霧を切り、縞になって湯の一角へ透っていた。その光りの筒を仰ぎながら体を捻じて、千鶴子は湯を肩からかけ流す昔を立てていた。乾いた蛇口の雫を待ちかねた水仙の花が、湯気に煙った千鶴子の肌の後から見えるのも、別れの前の矢代には忘れがたい一瞬の光りのようなものだった。
東京へ帰る千鶴子らの汽車を送り出してから、矢代はひとり駅前の広場に立ってい
前へ
次へ
全1170ページ中767ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング