、あまり「十六区」を知らぬ矢代は、暫くは二人の話を聞かされる番だった。
「僕はもう少し早く帰る筈だったんだが、侯爵がね、どうしても一緒に帰ろうというので、つい船も延びちゃったのだよ。ところが、ニューヨークへ着いたら枕木が来てるんだよ。どうして来たものやら分らないんだが、婿も一緒さ。」
美しい松脂色のゴム絹の袋から、きざみ煙草をダンヒルのパイプに詰め詰め云う由吉の話を矢代は、自分と別れてからの、千鶴子の生活の匂いを嗅ぎつける思いで聞くのだった。由吉の話の中に、侯爵とか男爵とかと、名を云わずただ爵位だけで呼ぶ習慣のあるのも、塩野には当然のことらしく、彼も由吉に応じて笑ったり皮肉を入れたりした。
それにしても、この塩野や由吉らの、日本人放れのした交友たちの間に浸って来た千鶴子が、矢代に近づいていた不似合なパリでの一時期の交遊期を、今さら彼は訝しく奇特なことだと思わざるを得なかった。しかし、もう今は、どこが違っているのか分らぬながら、どことなく総てが前とは違っていた。
「いつお帰りになりました。」
ほとんど先から千鶴子と視線の合うのを恐れていたのも、矢代は、このことだけ千鶴子に訊きにくい
前へ
次へ
全1170ページ中644ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング