ンリエットは日本語で礼を云うと葡萄酒を矢代に上げて笑った。矢代はアンリエットから聞くのはいつもフランス語ばかりで日本語をほんの少しより耳にしなかったが、彼女の父がマッサアジュリーム船舶会社の横浜支店にいたときに三年も習ったということであったから、恐らく平易な日本語なら何事も分るのであろうと思った。
薄明るい夕暮が窓の外へ迫って来た。アンリエットの折るセロリの匂いが白い卓の上に漂っている中で、矢代は若鶏の脇腹にたまった露を今は何物にも換え難い味だと思った。
「フランソア一世だか八世だか、世の中にこれほど美味いものがあろうかと云って、どんなにお附きの者がとめても台所へ走って行って、こ奴にかぶりついたということだが、全くこれだけはやめられないね。」
と矢代は云いながらナイフを鶏の脇腹へぐっと刺した。
「しまった。僕もそ奴を食べるんだった。僕が払うんだと思って倹約したので損をしたぞ。」
久慈はコールドビーフのような羊のなよなよした薄焼を切りながら、しきりに矢代の鶏に秋波を投げた。互に見せびらかしつつ食べる晩餐の敵意は、食物の味を一層なごやかなものにするのであった。
「横浜のへいちんろまだ
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