く、自分自身のことだった。ああ、自分のことだ、みんな。――これは難しい、実に云いがたく難しい、実生活の犇めきよせた世界の中へいよいよ自分も帰って来たものだと思った。
 窓から外に眼を向けると、泡を集めたようにどろりとしたメタン瓦斯《ガス》の漂う運河をへだて、互に肩を凭り合せて傾いた木造の危険な家並のところどころに、灯火を透した蚊帳の青さが、夏の名残りを見せていた。矢代はふと、大理石に囲まれたベニスの運河を思い出し、セーヌ河の重厚な欄壁の間を流れる水を思い泛べた。そして、暫くはあの河、この水と思うまにまに泛んで来る海港や、ロザンヌ、フロウレンスと連って来る、水上の灯火がしだいに幻のように閃きわたって来るに随い、も早や異国の匂いの脱けきれぬ自分の身の漂いを感じ、旅の愁いはこうしてこれから行く先ざきの自分に、深まり続いてゆくのみであろうか、もうこれは、自分からは取り去ることは出来ないのだろうか、と歎いた。
 その夜、矢代は帰りのタクシで千鶴子の家の方を是非廻ってみたくなった。店が日本橋にあり本宅が目黒と聞いていたから、目黒の方なら廻りもそんなに遠くはなかった。しかし、彼は車の中で、もう会うま
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