待ちになってて下さるといけないわ。」
千鶴子はこう云って洋服箪笥を覗いたり鏡に姿を映してみたりした。矢代はスーツケースを二つ両手に下げて廊下まで出ると、女中が馳けて来てそれを受けとり、馴れた早さで階段を降りていった。下まで二人が降りたとき、ホテルの主人が千鶴子に、それでは身体に気をつけて良い旅をせられるようと挨拶した。自動車をグランブルヴァールの方へ走らせ出してから矢代は、
「どうです。もう一度見たいところはないですか、車をそちらへ向けさせますよ。」
と云ってみた。千鶴子はルクサンブール以外どこももう見たくはないと答えた。車が公園の外郭に沿って廻り始めたとき、矢代は突然、もう二度とは見られぬ死にゆく病人と別れるような淋しさを感じて胸が詰って来るのだった。千鶴子もその間黙っていたがすぐ車はもうサン・ミシェルの坂へ出てしまった。
「ほんとに良い天気だこと。あたしいつも運がいいのよ。来るときもこんな日だったし、今日もこんなでしょう。」
と千鶴子は笑ってまた晴晴しそうに薄靄のかかった街を眺めた。
「パリの人間は見送りというものをしないそうだが、日本人は好きだなア。送ったり迎えたり。――」
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