少しも見えずただあたり一角の裏窓ばかり見られたが、この夜はその窓も閉っていた。久慈のホテルの部屋にバスのないのを知っている真紀子は、彼にバスはどうかとすすめたので、彼はそれにも這人って出て来たばかりで、まだ濡れた頭髪も掻きあげたままだった。
 真紀子は彼の次に自分の這入る湯を入れ替える間、久慈とテーブルに向き合い流れ落ちる湯の音に、ときどき聞き耳を立てていた。手首のところに少し人より目立つ初毛の延びたのが、灯影を受けた白い肌のうえで斜めに先を揃えて見える。一重瞼にうっすら影のさしている眼もとに勝気な鋭さの出ているのも、それも動かぬときには、心の流れを他人に知られぬ涼しさだった。
 椅子にもたれて煙草をうまそうに吹かせていても、久慈は東野との昼間の言葉のやり取りから吹き上って来る聯想にまだ悩まされて困った。
「どうも分らん。ノートル・ダムを見てから、頭がへんになった。」
 とこう不意に云って久慈はまた壁の花模様に眼を上げた。
「何が分らないの? 俳句?」
「分らんことばかりになって来た。分っていた筈だったんだがなア。みな分っていたんだ。」
「そんなに自分を失ったの。それは困るわね。」
 
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