ムの尖塔が見え始めるとそれもすぐ忘れたらしく、サン・ミシェルの坂の方へ出ていった。通りへ出たとき真紀子は手帖と鉛筆を買いに文房具店へ這入った。塩野がノートル・ダムを撮っている間、下の庭で句会をやろうと云って久慈も手帖を一緒に買った。すると、丁度云い合せたようにその家のすぐ横の本屋の店頭高く、松尾邦之助訳の芭蕉の句集が積んであった。
「君、二百年も経つと、芭蕉もこんな所へ出るんだね。」
 と東野はこれには感動した様子でその句集を手にとって眺めていた。
「ほう、サン・ミシェルのカフェーもみなストライキだな。これは驚いた。」
 逆さに椅子をテーブルの上に積み上げたあたりのカフェーの蕪雑さを眺めまわして塩野は云った。ストライキの話になると、東野と久慈との間がいつも険悪になるので、久慈も遠慮をしいしい俳句の話を出す時分だと思った。しかし、話が俳句のこととなると、知るも知らぬも、どうしてこんなに皆の心がにこにこと柔ぎそめるのか、妙な日本人の体質だと久慈は今さらのように首をひねるのだった。


 ノートル・ダムは坂を下ってからすぐ右手の、セーヌ河に包まれた島の中にあった。ここは先住民族のバリサイ人が
前へ 次へ
全1170ページ中365ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング