うござんしてよ。お顔の色もいけないわ。」
 と千鶴子は慰めた。矢代はやはりそうかと思ったが、黙って千鶴子の滑かな黄鼬の外套に支えられ潮に汚れた船の梯子を昇っていった。

 客のすっかり出きってしまった空虚の船の中は洞穴のようにがらんとしていた。たった一日だったがマルセーユの光りにあたって来た矢代には、明治時代の古い大時計の中へごそごそ這入る感じで、ここが昨日まで自分のいた船だったのかと物珍らしさが早や先き立つのが意外だった。矢代と千鶴子は自分の船室へそれぞれ這入った。矢代は寝台に横になって見馴れた天井を眺めていたが、人一人もいない淋しさにすぐまたサロンに出て来た。しかし、ここも灯があかあかと点いてはいるものの木魂がしそうに森閑としていた。矢代は足の痛さも忘れ、窓から見えるマルセーユの街の灯を眺めている間に、間もなく不思議に足の硬直が癒って来た。日本の空気の漂っているのは広い陸地に今はただこの船内だけだったから、もとの水槽へ流れ戻った魚のように急に神経が揉みほぐされたものであろう。いずれにしてもこんなに早く癒っては、船客の一人もいない船を狙って千鶴子を誘惑して来たのと同じ結果になって、矢
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