―矢代はあたりを見廻しながら歩いた。前から自分を見詰めていたらしい千鶴子の笑顔が遠い立像の傍からかすかにこちらを見て歯を顕した。一瞬視界がさっと展いたような光線の中で、ピエールが自分に代って千鶴子の腕を支えていてくれた。矢代は今はピエールにも感謝したかった。もし彼がいてくれなかったら、この夜の愉しさも、いつもと変らずただ無事な一夜にすぎなかったろうと思った。
矢代が桟敷へ戻ってから暫くして、もう幕の上りそうな気配のところへ真紀子が戻って来た。
「御免なさい。ひとり抛っといて。高さんに面白いお話沢山伺ったわ。」
真紀子は前とは変った上機嫌でにこにこしながら椅子に腰を降ろしたその途端、急にあたりの空気に首を廻ぐらせる風で、
「ウォルトの匂いがするわね。千鶴子さんいらしたんじゃない。」と訊ねた。
「来ました。」と矢代は云った。
「そう。それは良かったわ。」
真紀子は一寸黙って舞台の方を行儀よく見ていてから、突然矢代の方を向き返った。
「あのね、あたし、終りまでいなくちゃいけないかしら。でも、もういいでしょう。お役目果したんですもの。」
「じゃ、帰りますか。いつでも僕は帰りますよ。」
「
前へ
次へ
全1170ページ中302ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング