矢代はそれどころではなかった。千鶴子の張りつめたような眼の大きさが一大事の前触れのように頭に泛んで来てとれなかった。もう自分も完全に顛覆してしまっている。――矢代は人の全くいなくなった柱廊のひっそりとした真紅の絨毯の上を歩きながら、何事か深まっていく決意の中に身を沈めようとするような憂鬱な表情に変っていった。桟敷の鍵を持った黒い服の老婆が静かに柱の影から歩いて来た。すると、彼に近づいて来た老婆は鍵を出して、
「これ。要るんですか。」と訊ねた。
「いや。」
と矢代は云ったが、ふと老婆は千鶴子とピエールの部屋に鍵をかけにいったのではなかろうかと思った。全く迂濶に二人の桟敷の番号を訊き忘れたのを彼は後悔しながら歩廊を歩いているうち、多分このあたりだろうと見当をつけて立ち停った。しかし、勿論、たといそこだと分ったところで中へ侵入するわけにはいかないのである。矢代はまた引き返して来た。森閑としたホールの大理石の間を、金色の欄干が身を翻すようななまめかしさで、自由に嬉嬉としてひとり戯れている。彼はふとチロルで氷河の牙の上から振り向いた千鶴子の奔放な美しさを思い出した。暫くして矢代は自分の桟敷へ這
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