が誰かを待つ様子で一人じっと立っていた。その傍を通り抜けてから間もなく久慈は後ろを振り返って見た。鳥打の黒いジャケツを着た男が膝で女の腰を一蹴り蹴って上りの額を受けとると、また疲れたように黙黙と二人並んで坂を下っていった。
剃刀をあて終え眠りたりた気持ちで久慈はカラアを取り替えた。通りをへだてた前の、建築学校の石の屋根の上に一面生えている草の中で、垂直に立ち連った菖蒲の花が真盛りである。久慈は沼の岸べを見る思いで菖蒲の上の水色の空を眺めていると、教師の眼を逃がれて来た生徒たちらしい、散兵のように一人ずつその雑草の中を這い登って来て、日当りの良い位置をそれぞれ選んでひっくり返った。遊ぶ閑の少しもない厳格さで有名な学校であるだけに、屋根の上で生徒たちの忍ぶ散兵も見ていると滑稽な景色だった。あるものは早朝から夜中の二時三時まで学校から帰らず、机に獅噛みついて製図や計算に勉めている姿を久慈は毎夜眺めていた。
そのとき、ノックがしたので久慈は戸を開けると珍しく千鶴子が憂いげな顔で立っていた。久慈はネクタイを締めつつ千鶴子に椅子をすすめた。
「お珍らしいな。旅行は案外早かったようですね。」
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