るといえるのか。」
 久慈と矢代のつづけている論争の傍で、東野はもう二人の争いなどうるさそうに、片眼の男が女を口説く毛物のような爛爛として無気味な表情を、眼を放さず見詰めていた。女の亭主がパリで一旗あげる心算で、出版屋の片眼に妻を自由にさせているものか、あるいは妻が、良人の出世を希う一心で男のするままに応じているのか、そこの秘密を知りたい東野の眼つきは、前からいささかも弛まなかった。しかし、文士の亭主はどういうものか妻の不貞に関して少しも動じる色がなかった。彼は理想派のトロツキストが必ず近い将来に於てスターリン派の行動と衝突を来し、パリの罷業は資本家に乗じられるであろうと主張していた。
 彼の主張は、妻の心の隙間に乗じている片眼の男の獣性を諷刺しつつ語っているものかどうかも、東野は心を鎮めて眺めているのだった。
「もういいかね。いいならそろそろ出て場を換えよう。」
 東野は、片眼が女の唇を盗もうとした瞬間、つと横を向いた女の動作を見終ると二人に云った。久慈がボーイに計算を命じてからも二人は暫く黙っていた。通りへ出ると、鋪道に拡がっている並んだカフェーのテラスに人がいっぱいに満ちていた。
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