千鶴子とは別れてしまい一生再び彼女とは逢わない決心だった。もしこれ以上逢うようなら、心の均衡はなくなって、日本へ帰ってまでも彼女に狂奔して行く見苦しさを続ける上に、金銭の不足な自分の勉学が千鶴子を養いつづける労苦に打ち負かされてしまうのは、火を見るよりも明らかなことであった。
矢代は千鶴子のホテルの方へ彼女を送って行きながら、こうして愛する証左の言葉を一口も云わずにすませたのも、これも異国の旅の賜物だと思った。建物の上層ほのかに射している日光を仰ぐと穏かな浮雲が流れていた。雨に流され鋪道の石の間に溜りつつ乾いた綿のような軽い花の群れが、自動車の通る度びに舞い上り、車輪に吸い込まれて渦巻きながら追っていった。
パリを出発してから矢代は南ドイツに入り小都会や地方を廻ってチロルの方へ出て来た。
オーストリアと、ドイツ、イタリア、スイスに跨った山岳地方一帯の地名をチロルと呼ぶが、矢代は東京を出て以来、日本人から全く放れて一人になったのはこの旅行が初めであった。このあたりは矢代の知っている言葉はほとんど通用しなかった。日本人の顔とては一人もなく、言葉も全く通じないということは、ときには
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