した。力も緊って来ない弛んだ千鶴子の手をまた彼は振った。
「僕もびっくりしてるんですが、とにかく、寝台があるというもんだから、逃せない。あなたはゆっくりしていて下さい。」
「じゃ、電報下さいね。」
千鶴子も初めて納得したらしく彼と並んで階下へ降りて来た。駅から遅く一人で戻るものの気苦労も際し、見送るという千鶴子を無理に回転戸のガラスの前で止めたまま、ひとり矢代は駅の方へ車を走らせた。
夜行にはまだ五分も間があった。躊躇することなくば急場の無理も調子よく行くものだと、ほッとした気持ちで、彼はすぐまた旅臭い寝台でひとり寝る準備にとりかかるのだった。このような急がしさも幾回もやったものだったが――彼はヨーロッパの見知らぬ山中での不意の乗り替えや、出発の際の危い佗びしさを思い出したりした。そして、落ちつくと初めてまた彼は旅への郷愁をつよく覚え、身にせまりよって来る空や水の、拡り流れてゆくさまを胸痛く惜しんで眠りがたかった。
次の日の朝眼を醒すともう関門海峡にかかっていた。矢代は海峡を渡り門司から裏九州の方へ支線を廻って行って、父の郷里の駅へ着いたのは、正午を少し過ぎたころだった。そこから
前へ
次へ
全1170ページ中1069ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング