、彼の身をよろめかす温みでもあった。しかも東野の瞳の中には、こちらの結婚という急所を睥み据えた鋭い笑いの秘められているのも、返答を待つことの特別巧みな東野としては勿論、矢代の入社試験の問題をもともに投げ出しているにちがいなかった。
「とにかく急所を固定せしめないように、暫くその返事延ばさせてくれませんか。」と矢代は答えた。
「うむ、しかし、向うは大真面目だよ。」と東野はひと言洩すと、漸次机上の物を片附けていった。
矢代は東野の立ち上った甚兵衛羽織の後姿を眺め、継ぎ継ぎと大小の礫を投げつけては姿を昏ます迅速なその手際に、ついこちらも自分を無くしてゆく疲れと寂しさとを感じ、またこれからの食事も共にしなければならぬ数時間の長さが、異常な忍耐に思われて来るのだった。
夕暮が迫って母屋の方から東野の子供の声の聞えて来たころ、三人は家を出た。
夕食は東野の行きつけの相鴨を食べさす店だった。上げ潮の隅田川の水に灯の映って見える玄関の軒灯をくぐり、二階へ昇って行くと真紀子はもう先に来ていた。彼女は東野とはつねに会っているらしく、二人の間で何の挨拶もなかった。矢代はパリでは真紀子と宿が同じのせいもあって、会うとやはり懐しかった。それでも東野と並んでいる彼女の背後に久慈の姿が絶えず纏いついて放れず、話すにしても、真紀子との間に久慈がいてこそ感情の連絡も維持された習慣も、急にそれが東野に移っている変化は何かにつけ当分具合も悪かった。またそれに気附いている真紀子も、いつもと違った遠慮がちで、話も双方ともに滑らかに辷らなかった。
すきやきの鍋を、真紀子と東野、そして、千鶴子と矢代と二つに頒けた。鍋がそれぞれ熱くなり油の面にしみ崩れて来たころ、東野はセーヌ河の岸にあった有名な鴨店の鴨と食べ較べてみて欲しい、ここのは勝るとも決して劣っていない味だと云って、誰より先きに一人喜んだ。一同が黙っていると、鴨の食べ方を説明して、みなのはなっていないと非難しつつ、おろしに入れる醤油の差し方、手ごろな柔かさの味加減をいちいち細かく看守っていて指図した。東野の訓えるままにして食べたものは、なるほどどの肉も味が数倍上等だった。
「これで少し、もう季節が過ぎているからね。ほんとに、一月二月のを食べさせて上げたいのだが。」
東野は自分の作のように残念がりつつも、鍋の下の炭加減にまで注意しつづけ、他のものがいかがわしい肉を摘まむと、それを箸から抛り落し、「これこれ、」と云っては別な適当のを指し替えた。
「驚いたな。来つけたのは古いのですか。」
と矢代は感服して訊ねた。来つけてから十年になること、そして、この家のどの古い女中も肉の択び方、炭加減、大根おろしの量の盛り方などは、自分よりも下手だと云って、特に、この店の良心的な野菜類の選定の厳格さを賞した。葱は上州から、人参は京都、海苔は大森、椎茸は伊豆、と一流品の出所まで精しく話した後、ここの鴨だけは芸術品になっているとまで、ついにそのあたりから東野の説明も少少うるさくなって来た。
「しかし、君、日本の芸術家の中で、第一番は農夫だと僕は思うがね。」
とこう東野が続けて突然に云ったときは、いつもの癖とはいえ、もう厳密科学の真理の表現が逆説とならざるを得ぬ状態に似ていて、何か切っ羽詰った苦しさが裡に巻き溢れているように矢代には感じられた。
「あの手で真紀子さん、俳句の方も叱られているころでしょう。」と矢代は笑った。
「そうなの、先生はあたしの句賞めてくだすったこと、たった一度だけ。それもあたしの一番いやな句ですのよ。」
矢代から東野へ瞬間流眄を向けそう云う真紀子の笑顔を見て、矢代は、まだ東野に対して弟子とまでは云いがたいなと思った。
「真紀子君のあのときのあの句は良いよ。待つ朝の鏡にうつす青落葉――そういうんだがね。いいだろう君、ルクサンブールの朝がよく出ているよ。それも一寸自棄ぱちな静かな凄さが潜んでいてね。」
東野の説明を俟つまでもなく、その句の「鏡にうつす」という自動的な表現で、久慈と別れる朝の真紀子の覚悟が、青葉を繊手で※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]ぎ落とすように鮮に出ている句だと矢代は感じた。そして、なおそのころの真紀子たちの心境の移り動きも知りたくなって、いま少しその他の句を披講して貰いたいと頼んでみた。
「まだいろいろあったね。荷造りのくずれ痛める冬の旅――これもまア、見られる。」
「それは先生に直していただいたの。」と真紀子は云ったが、そう云い終ると一寸首を竦めて俯向いた。
「いまの句は句以外に、久慈と僕との間のことで面白い意味があるのだよ。これは話さぬと実は味も少いのだが。」
一つ話してみるかと東野は相談を真紀子にしかける風に彼女を見てから、久慈が真紀子と別れるとき東野の宿へ来た
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