いさ。しかし、来たものは何んとも仕様がない。これは意志でもなし精神でもない。霊魂だからね。有り難く僕はお受けしたさ。」
 東野の平然としてそういう胸の裏のどこかに、まだ矢代の手の届かぬものを彼は感じた。
「有り難くね。」
「うむ、――」と東野は頷いたまま黙って矢代を見ていてから、「だって君、これは日本人がそれだけ苦労したことだよ。その他のことじゃないよ。それだからこそ、われわれの神様だってそれをお認めになって、よしよしと優しく仰言って下すったというもんだろう。僕には、そういう他国の宗教精神というものは、それ以外に感じようがないのだよ。それ以外の感じようというものは、いくら上手く云えたところで、僕には嘘に見えるのだ。見えれば仕様があるまい。」
「じゃ、神なんじと伴にありと、いうのも、やはりその神さん、僕らの国の神さまだという意味にも、あなたにはなるんですね。」矢代はそう問いつつも顔の赧らんで来るのを覚えたが、そこが東野の芸の壊れどころだと思い彼の眼の中を瞶めていた。
「それはそうだよ。」と東野はここだけ妙に静かに答えた。そして、なお穏やかに角壜の中の水を見た。「しかし、そういうことを云うと、みな人は気に入らないんだよ。主観的だというのさ。しかし、客観的にどうなって見たところで、結局は同一性という主観的なものからは脱けられないよ。天上天下唯我独尊に落ちつくこと、そこが人間知識の相場市場だ。」そう云って東野は少し黙った。そして、また紙を巻きながら、「僕はこの水と字を貰ってからいつも考えたね。これはやはり日本の神さまも向うへも行っていらっしゃるということだと、大真面目で思ったんだがね。そうでなくちゃ、僕には世界というものを感じる感覚能力も無くなるんだからね。ところが向うのものはまた向うで、自分のところの神さまを同様に考えるだろう。そういう人間感覚の較べようの不可能な世界へ、科学がぬっと顕われて客観塔という同一性の抽象塔を建てたのさ。まア、建てられるだけは、建ててみるのも良いだろう。あれは人間が退屈したんだよ。賽の河原というところだね。」
「それじゃ、カンフル注射はせずとも良いでしょう。」と矢代は軽く笑って云った。が、ふと見たヨルダンの水はこのときはもう普通の水に見えて来て、よしッと矢代は思い、これでようやく一日の危機を脱したと思って喜んだ。ところが、彼の何気なく云ったその一言に、今度は東野の方が意外に正直な壊けを見せて、瞬間自分を取り鎮めようとする多忙な眼の光りで笑い出した。
「五十鈴川のこのお水へカンフル注射をするときは、実際僕も慎重に考えたよ。しかし、水というものは腐敗が速いからね、もし細菌をわかしちゃ、勿体ないし、そうかといって捨てちゃなお悪いし、そこで僕は科学的に考えたのさ。少しは自分の精神に苛責を加えてやらなくちゃ、素直な精神という奴は固定してしまう惧れがあるよ。要するに、急所を固定せしめないのが自分に対する戦闘だよ。」
 早や先廻りしてそう云う東野の弁明のしなやかさを、矢代は黙って記憶にとどめ賛同もしなかったが、彼の苦しみの存するところもまた感じて、急所は固定しかけているなと思った。すると、東野は突然自分の膝を軽く打つと、「あ、そう君に云うの忘れていた。」とそう云って、傍にいる千鶴子の耳を憚ることでもあるのか、そのまま云い出さず、古万古の袱紗の口を締めていた。矢代は度重なる東野の今日の不意撃ちにまた何を云い出すのかと重苦しい感じだったが、やはり彼の動き出す言葉を待つのだった。
「先日ニュー・グランドで、君たち帰った後からの話だがね。いろいろと諸君のこともまた出たのさ。そのとき最後に久木男爵が、君に自分の会社へ来てくれる意志があるか、どうか。一度訊ねてみてくれと僕に云うのだ。僕は君の会社向きでないことを云って、一応反対したんだがね。男爵の方はまた、考えがあると見えて、それだから君に入社して貰いたいというんだね。それなら話は分るが、その代りに高給を出してくれるか東野大学出身だからと、つい僕は冗談を云ったのだよ。そしたところが、即座にそれは僕に任すというのだ。僕にだよ。面白いじゃないか。」
 と東野は云ってにやにやしながら矢代の顔を窺った。
「それであなたは幾らくれるんですか。」
 他の会社へならともかく、聞いたときから久木会社へは勤める気持ちのさらに動かぬ事情もあり、矢代は給料のことなども冗談のつもりでそんなに露骨に訊ねられた。
「それで僕は、じゃ、無給にしようと答えたのさ。本当の話だよ。どうかね。」
 無茶な話とはいえ、考えればこれには含蓄ある展望も開けていた。しかし無給とあればともかく、考慮の外で断ることの出来ぬ人情の世界の相談になって来たと、矢代も難問に直面した思いになったが、どこまでが真面目な一点だかその朧ろなところが
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