んな所だったわ。」
過ぎ去ったことでも思い起せば現実になる、という哲学の見本めいて、口にして二人で云うと、忽ちそれは真実の重みをもって顕れ、二人でその思い出を支えるように沼に密集した睡蓮の周囲を廻っていくのだった。矢代は、モネーの日本好きは狂人のようでいつも自邸を日本趣味で溢れさせていた話や、彼が見たくてやみがたかった日本の夢の中で静に死んだその生涯の代表的傑作が、自分らの見た睡蓮の沼だったことなどを話してみた。
「でも、あなたはあのとき、そんなこと仰言らなかったじゃありませんか。これは地獄の絵だなんて、そう仰言ったわ。」と千鶴子は多少からかい気味に笑った。
「あのときはコーヒー一杯も飲ましてくれないものだから、つい腹立ちまぎれに失礼なことを云ったのさ。しかし、これでモネーの天国だと信じたものが、あの睡蓮の絵にこもっていたのなら、たしかにあの日の地獄よりもこの古沼の方が天国かもしれないからな。」
矢代はそう云いながらも赤松を渡る風の音を聞き、擂鉢形の底から空の明るい方を見上げると桜の葩がこぼれて来た。沼の小径から芝生の小高い上へ登り、そこでまた去りがたくなった二人は、どちらからともなく腰を降ろして睡蓮を眺めるのだった。
「ときどきこれからここへ来ましょうね。あたし気に入ったわ。こんなに静で、それに誰もいないんですもの。」
手をついてそう云う千鶴子の指の間から芝生の新芽が伸び出ていて、手頸の初毛の上を匐って来る蟻の黒い蹌踉めきが、新婚に入ろうとしているものの生彩ある放心を感じさせた。矢代は刻刻に充実していく自分の喜びの常でないものを覚えたが、ふとそれがどういう訳ともなく哀感に変っていく細い流れの伴うのも感じ、蟻から下の睡蓮の方に眼を転じた。水すましの描いている波紋が沼に降り込む雨に似ていた。
東野の家は公園から間もない高台にあった。壊れた門から玄関まで相当遠い前庭に雑草が茂っていて、その草の中に花飾の下った台石の高い柱廊が見えた。一瞥した家の様子は、東野の酔狂めいた風格のある部分をよく顕したものだった。千鶴子の話では、東野の夫人は歌人だが関西の財閥の出で、病身のためいつも夫人附きの須磨の別宅に寝んだきり東京へは殆ど出て来ないとのことで、三人の子供たちも二人は須磨、長男だけが乳母に育てられ父と共にいるということも、矢代は初めて聞かされた。また千鶴子がそんな東野の身の上を知ったのも、真紀子に話されたということを考えると、矢代は、帰ってからの東野や真紀子の二人の交際も、自分の想像外のところまで深まっていることとも推測された。東野は作家としては退潮期に入り華華しい活躍を停止していたとはいえ、ときどき人の意表に出る大胆な作風で、想像力を重んじるものたちからは愛敬され、科学主義の作家たちからは疎んぜられる傾向があって、漸次に今は和紙会社の副業の方に熱心になり始めているのも、一つは東野の癖の多い趣味性によるのかもしれず、また彼の外遊の目的も文学上のことより、寧ろ和紙の販路の拡張のためもあったかと解された。
家の中は、呼鈴を押してみても暫らく静まり返っていて答えがなかった。千鶴子は裏庭へ廻ったり、雑草の中でひとり花を咲かせた美しい杏の樹を仰いだりしているとき、玄関が中から開いて東野の大きな顔だけ外を覗いた。
「どうもあなたらしいお宅ですね。すぐ分りますよ。」矢代は挨拶などこの東野にはする気にならず、始めから寛いだ気分で云った。
「荒涼としたもんだろう。僕も帰ってみて我ながら驚いたのさ。」
そう云う東野の後から、二人は人気のない廊下を渡り、樹の多い母屋の方の中庭を越して離れになった中二階の居間へ通された。ここはまた広い庭に丈の高い芒ばかりが生い茂っているだけで、野末を見渡すような芝生の一隅にその離れの座敷が浮いていた。
「これでこの部屋は雨が降るといいんだよ。」と東野は案外気に入っているらしく、部屋の障子を開け放した。
密閉されたガラスの棚には、大きな数十の古硯や古墨その他、古い文房具の犇めくように並んでいる中に混り、八大山人の対幅と、オートイユの競馬の版画が懸けてあって、扁額には「眉子山房」と鳴鶴風の意外に生真面目な字が読まれた。千鶴子は先ず硯の蒐集におどろいて棚に近よった。すると東野は自分の財産の主要なものは硯だけだと云って笑い、鳩首の彫刻のある蒼黒い硯を出して指先で撫でながら、これが眉子《びし》だと訓えた。そして、日本へ帰った以上は東洋文明を知るために、紙、筆墨、硯に対して一度思いを深めるべきでここにもつとも精緻な文化の華が潜んでいるとも語った。棚の上に直接見える古硯類には和硯が多かったが、品種は全国にわたっているのも東野の綜合的な性格がよく窺われるものだった。近江の虎斑、甲州の雨端、長崎の若田、福井の紅渓、駿河の馬蹄と、東
前へ
次へ
全293ページ中245ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング