ものだと思いますよ。これは無目的で、私心がないというその無目的な美しさが美しいんだと思う。」
 矢代はこう云って皿の車海老にレモンの露を滴した。しかし、それは侯爵邸で遊部との議論のさい、ニュートンとピューリタニズムの精神の一致を遊部に説かれて、彼から止どめを刺されたのと同じ手で、いま彼を自然に刺し返したことに気づいた。遊部もすぐそれを知ったらしく、卓上に垂れたミモザの花房の上からちらりと嘲笑を見せて云った。
「しかし、そういうことは偶然という、怪しいものだなア。殊に有史以前の大昔のものが、そんな巧緻な近代幾何と一致するなんて、僕らには想像出来ないことですよ。ただそれは空想というものに過ぎぬ、夢ですよ。」
「まア、そう思いたい軽信は、お互いにありますがね、しかし、そんならニュートンだって夢ですよ。けれども、ピューリタニズムがニュートンと一致したり、ガリレオやデカルトがカソリックと一致したりしているというような、そういう夢というものの美しさを人間が信じなければいられぬ以上、日本の御幣だって、何んらかの数学上の最高地点と一致してくれたって、良かろうじゃありませんか。御幣は数学なんだからな。」
 矢代は、見るまに変ってゆく遊部の馬鹿にした表情を見詰め、今夜はどのようなことがあっても敗北していられぬと、握るフォークとナイフも自然に固くなった。
「しかし、あなたは日本の太古にそんなことがあったなんて、本当に思われるんですか。」と遊部はまた真正面から矢代を見て訊ねた。その顔はもう怒ったように生真面目だった。矢代は、そういう遊部と対き合うと、まったく遊部のその正直さも無理ならぬことと急に思えて来るのだった。遊部とは限らず、矢代たちの時代に受けた教育では、ニュートンを信用するのは当然のことで、この遊部の思いを翻すことなど容易に出来ることではなかった。しかし、彼と同時代の青年の中にも、槙三のような、幣帛の姿から胸打つものを見た感動ある新鮮な能力も蘇っているのを思うことは、矢代にさらにまた別の感動を加えるのだった。それは驚くべきことと思い、見ている卓上の布の白さも心を休める美しさに見えて来た。
「まア、僕たちは一番正直に考えるべきところへ来てしまったのですよ。あなたも僕も、どういう巡り合せか、そうなって来たのだから、なるたけ僕らは感傷を避けて、古代文明の新しい数学に驚きましょう。実際、意志や感情じゃどうしようもない、美しい姿がある以上は。」
「じゃ、そのうち、僕も御幣を担がせて貰いましょう。」と遊部は静にいって、皿の上のマヨネーズを攪き廻した。
 矢代は遊部にこの場は先ず勝ったというものの、明らかに腹立ちを与えて負かした自分の説得の不足を残念に思った。それも終りに、そんな侮辱を含んだ口吻を吐かせたと思うと寂しかったが、しかし、今日の遊部との論争は侯爵邸の夜よりはまだ良かった。矢代が遊部を説得するに都合の良い何よりの強力な武器を、槙三から持ち運んで来てくれたのは、他でもない千鶴子だったからである。またこの日の千鶴子は侯爵邸の夜とは違い、矢代の信仰の対象に槙三が動かされて来たことを喜んでいる様子が顕れ出ていて、他人事ではなく彼女もまた嬉しそうだった。この千鶴子がともに信仰に近づいて来てくれた表情の明るさは、また矢代の明るさでもあり、そして、それこそ長らく彼の望んで熄まなかったものの一つだった。
「僕は君と一緒に帰って来て得をしたのは、何より俳句を勉強したことだったよ。」と平尾男爵は東野に云った。「あれはだいいち論争したくなくなって善いね。もし世界に俳句を拡めたら、世界は見違えるように美しくなるなアとそう思ったが、君、芭蕉の思想なんて、なかなかどうして、あれは孔子以上だぜ。静寂でいてそのくせ千変万化するところは、どこかベルグソンにも似ているし、御幣にも通じるし。」
「ところがまた、俳句界ほど論争の多いところは、世界に稀だよ。」
 東野の言にテーブルの周囲は一時にまた笑い崩れた。しかし、それは笑いとともに捨て流せぬ、俳句以外の重大なものに通じる心として矢代の胸に残って来るのだった。男爵も同時にそれを感じたらしく、ひとり大きく頷きながら云った。
「一番静かなものの中が、一番論争が激しいというのは、そりゃまた日本だね。」
「あれは論理と心理の極致に花を咲かせようとする念願なんだからね。つまり、やっぱり御幣をいただくための斎戒さ。不浄があってはならぬから論争する。しかし、それは何もわれわれの論争にしたって、日本人のする論争ならすべて、結局はみな斎戒だよ。戦争にしろ平和にしろ、よく考えてみると等しくみなこれ斎戒さ。それ以外にはないのだよ。悪だって善だって、漫才だって、玉乗りの果てに至るまで日本人はそうなんだから、まア、とにかく、僕らにしてもやっと御幣の傍へ帰りつい
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