感動が伝わって遽しく往来がつづいていった。白い歯が間断なく洩れたり消えたりした。しかし、船が停ってから乗客の降りて来るまでが、これが面倒な時間がかりだった。
「僕もあなたのこうして帰られるとき、出迎えに来るんだったなア。しまった。」
と矢代は千鶴子に云った。そして、また東野と真紀子の方に対って帽子を振った。千鶴子もそれには黙ってただ手巾を振っていたが、そのうち船中の人に自分を知らせたくて夢中に後方から押しつけて来る群衆に圧せられ、だんだん矢代の方へ押し竦められて来るのだった。しかし、それは二人にとって思いがけない仕合せなことだった。むしろ千鶴子は群衆の力を頼みとして、自分が前に船でこの港に入港して来るとき、出迎えの中に矢代の不在だった物足りなさを、今ここで取り戻そうとするような、無量の思いの噴出して来た機会とも見えたが、またそれは、たしかに千鶴子だけでなく、矢代にも同様の空想が暫くは消えない充実した一刻に変って来ていた。もう気羞しさもなく、躊躇もない、許された日の灯火の下でめぐり合った二人のように、物狂わしい幸福感で互に一層温められた。港港で浴びた潮の香の思い出さえ、時を得た花に似て二人の間に咲き揃って来るのだった。しかし、このような二人が、パリで別れて東西の帰路をそれぞれ辿って来て、そして、今この港の埠頭で初めて会うときが、丁度こんなであっただろうと思い合うことは、実際、どちらにも少し遅すぎて来たのだと矢代は気付くのだった。
「あたし、一寸お訊きしたいこと、頼まれてるんですよ。」
と千鶴子は何か忘れていたことを思い出したらしく云ったが、すぐどういうものか、あまり近づきすぎている顔を背けて真っ赧になった。
「何んです。」
「でも、それは後からお訊きしますわ。」
千鶴子はまた、船に対って手巾を振りつづけたが、そのときはもう下船準備の命令が出たものか、甲板の上ではそれぞれ乗客たちが後を見せて散って行くときであった。
船客たちが梯子を降りて来ると、ホームの上に幾つも出迎えの人人の輪が出来た。挨拶をするにも握手を身につけた手振りでするものが多かったが、気羞しげに船客を取り巻いたまま無言で遠くから見ているものや、いきなり冗談を浴びせるものらの中で、真紀子もすぐ千鶴子に近よって来て、握手をした。しかし、東野は握手をせずに矢代の肩を両手でぐっと掴んでから、一つ大きく背中を叩いて笑ったきりで、すぐ千鶴子に対い、
「まだ覚えていてくれましたかね。」
と軽くからかった。平尾男爵は堂堂とした体躯に幾らか疲れを見せた背を丸め、温和な口もとに挟んだ煙草に火も点けず、田辺侯爵と立話をしながらも、自分の乗り捨てた船をときどき眺めては別れを惜む風だった。あちらやこちらで、未知なものらの紹介や、挨拶がひときり済んだと思われる適当なころ合いに、
「さア、ここでこうしていても始らないから、ともかくホテルまで行こうじゃないかね。」
と由吉は云って皆の先に立って歩き出した。人人の渦は崩れて彼の後から階段を降り始めたが、その途中でも、帰朝者から報道洩れのスペインの内乱に関する新しい話を、誰も一番に聞きたがった。平尾男爵はイギリスの新聞や噂から拾った各国の武器の注入状況とか、スペイン人自身の、二階と階下に別れた兄弟同士の銃で撃ち合う物凄い有様とかを、問われるままに語っていた。
「とにかく、あれは世界戦争の始まりだよ。もう戦争は起っている。対岸の火事じゃないよ。」
こう横から一口云ったのは東野だった。そして、彼はその後の言葉を強い調子でまた云った。
「ヨーロッパももう底を突いた。今度こそはいよいよ東洋の海嘯《つなみ》だよ。僕らはうろうろしているときじゃない。」
興奮の去りかねた言葉だと分っていても、一同は東野に語を継ぐことも出来ずばったり黙ってしまったまま、一種異様なショックでそれぞれ下のタクシに乗り込んだ。
「久慈はどうしました。無事ですか。」と矢代は東野の横に乗ってから訊ねた。
「ああ、あれはまだ子供で困ったものだ、パリで逍遙していたよ。」
逍遙を子供の小さい用と訊いたものか塩野は突然おかしそうに笑い出した。東野はそれには少し困った表情になりかかったがすぐ加えた。
「しかし、僕はあの人ほどフランスを愛することの出来る人がいるんだと思うと、フランスが羨ましくなったね。僕はあの三分の一でも日本を愛してくれればなアと思ったが、愛というものは、こ奴はどうしょうもないものだ。そういうところがもしフランスにあるのなら、フランスだって少しは日本を愛してくれるだろうと、このごろ思い直しているんだが。――実際そうだよ。日本にラフカディオ・ヘルンがいたために、どんなに僕ら日本人はギリシア人に感謝したか思って見給え。」そして、東野は篠懸の街路樹の芽を噴き出している色を見ると
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